墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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昼飯大塚古墳 岐阜県大垣市昼飯町

昼飯(ひるい)大塚古墳は全長150m、周濠を含めると約180mを測る岐阜県最大の古墳。

前回の粉糠山古墳から旧中山道を500mほど東へ向かうと、街道のすぐ南に出現します。

南側に駐車場完備(ただし9:30~16:30)

 

美しく整備された墳丘です。

 

伊吹山も、墳裾からくっきり。

 

歴史公園の説明板。

昼飯大塚古墳歴史公園(史跡 昼飯大塚古墳)
所在地:大垣市昼飯町字大塚
指定年月日:平成12年9月6日
指定面積:12,641.71㎡
古墳の規模:墳丘長約150m、後円部径99m、高さ13m、前方部高9.5m、周濠を含む全長約180m
昼飯大塚古墳は、4世紀末頃(古墳時代中期初頭)につくられた前方後円墳で、この時代に築かれた古墳としては、東海地方では最大級となる古墳です。
古墳の構造は、後円部と前方部がともに三段であることや、深い周濠がめぐること、後円部に竪穴式石室、粘土槨、木棺直葬という三つの異なる埋葬施設が埋められていることなどがあります。
後円部の頂上には、直径20mの円を描いて埴輪が並び、その内側に家形、盾形、蓋形、靫形、甲冑形埴輪、さらに、滑石製の勾玉や臼玉などの小さな玉や、小型の土器(高坏・壺)、笊形土器、食物を模倣した土製品が出土しており、埋葬後に様々な儀礼がおこなわれたことが明らかになっています。
古墳は発掘調査を受けて、平成21年度から4カ年をかけて保存整備事業をおこない、削られた墳丘は新たな盛土で修復し、一部を復元ゾーンとして葺石や埴輪を復元しました。復元ゾーンの一段目では、これからも古墳との関わりをもち続ける場として、市民のみなさんのご協力をいただきながら埴輪を並べたり、葺石を葺くなどの作業を行うところであります。

 

後円部斜面の一部に、葺石が復元されています。

 

周濠から見上げて。

 

復元ゾーンの解説。

復元ゾーン
墳丘は後円部・前方部ともに3段で築かれており、各段の斜面には葺石が、平坦なところは埴輪が立てられていました。
葺石の多くは砂岩で、近くの大谷川や金生山などから運ばれてきたものと考えられます。石を葺くときは、まず大きめの石を縦に並べて区画をつくり、次のその区画を小さめの石で覆いました。
埴輪は、各段に約500本が並べられていたと考えられますが、復元ゾーンにはその一部の円筒埴輪列を復元しています。
復元ゾーンの1段目では、今後、市民のみなさんのご協力をいただきながら、葺石と埴輪そ順次整備していきます。

 

2段目テラスから見ると、「大きめの石を縦に並べた区画」がはっきりします。

 

公園には立体模型も完備。さすが国指定史跡。

Wikipediaには、形状は後円部に比して前方部が短く、類例として青塚古墳(愛知県犬山市)・正法寺古墳(愛知県西尾市)・宝塚1号墳(三重県松阪市)との関連が指摘される、とありました。

 

横からみた鞍部。右が後円部。

 

この背面側に別の説明板がありました。出土品は大垣市歴史民俗資料館で見られることを、書き起こしている今きづきました。

昼飯大塚古墳のすがたと周辺の古墳
・昼飯大塚古墳のすがた
昼飯大塚古墳が作られた当時のすがたは三段で、墳丘の斜面全体には石がすき間なく葺かれ(葺石)ていました。石は近くの大谷川などから運ばれてきました。また、平坦な部分(テラス)にはたくさんの埴輪が置かれていました。
現在の昼飯大塚古墳は大部分が緑に覆われて、二段に見えます。一段目の周濠のほとんどが地中に生まれているためです。整備では墳丘が削られたところを、新しく土で覆い、かつての姿を残している部分はそのまま残しています。後円部の復元ゾーンには古墳が作られた当時の姿をみることができます。
・出土遺物
昼飯大塚古墳からは多くの遺物が出土しています。後円部頂上からは4,000個以上の玉類が、木棺直葬部分からは刀などの鉄製品が40点余り出土しました。埴輪は円筒埴輪が最も多く、古墳が造られた当時には1,500本の埴輪が並べられていたと推定されます。円筒埴輪の他に朝顔形埴輪や形象埴輪(蓋形、家形、盾形、靫形、甲冑形)等の様々な形の埴輪も出土しています。
※昼飯大塚古墳の出土遺物は大垣市歴史民俗資料館で展示公開しています(中略)
・周辺の古墳
昼飯大塚古墳のある、ここ青墓・赤坂地区は古墳時代全般にわたってたくさんの古墳が造られたところです。花岡山の頂上には古墳時代前期の前方後円墳が2基ありました。矢道長塚古墳は昼飯大塚古墳よりも先に築かれ、昭和の初めに多くの副葬品が出土しています。粉糠山古墳は前方後方墳としては全国で10番目の大きさをほこります。大塚1号墳は5世紀の方墳です。車塚古墳は大きな横穴式石室を持つ7世紀の古墳です。北側に広がる山麓や山腹には6世紀以降に造られた横穴式石室を埋葬施設に持つ、後期の古墳が300基以上造られました。

 

周辺図をよく見ると、かなりの数の古墳・古墳群が広く分布していることもわかりました。

 

出土品の一部は隣接する下記の施設でも見られるようです。

岐阜大学旧早野邸セミナーハウスで昼飯大塚古墳出土品の展示 | 大垣市公式ホームページ/水の都おおがき

 

前方部右裾へ移動して広角で。

 

前方部先端側の直線。

 

前方部斜面中ほどのテラスから。

 

前方部から後円部方向を広角で。

 

振り返った前方部から西方向。関ヶ原の谷が望めます。

 

南の濃尾平野。

 

後円部へ上がって振り返った前方部。

 

くびれ部に見とれます。

 

広い後円部を広角で。

 

墳頂直下には埋葬施設が3箇所。

埋葬施設と墳頂儀礼
後円部の頂上には、直径20mの円形をなして埴輪列がめぐっていました。埴輪列の内側では、地表下約1.5mで三つの棺が確認されています。竪穴式石室(北棺)と粘土槨(南棺)が平行に並び、またそれらに直交する木棺直葬(西棺)がありました。
竪穴式石室(棺の長さ4.5m)は盗掘を受けていましたが、粘土槨(同6.4m以上)には壊された形跡はありません。西棺(同5.2m以上)に沿って刀剣類などの鉄製品が多数出土しており、棺外に置かれた副葬品と考えられています。
これらの埋葬施設は、竪穴式石室→粘土槨→木棺直葬の順でつくられましたが、同じ墓壙のなかにありますので、埋め戻されたのは同時と考えられます。
墓壙を埋め戻した後は、埴輪列の内側に、家形、盾形、蓋形、靫形、甲冑形埴輪を並べ、さらに小型の土器(高坏・壺)、笊形土器、食物を模倣した土製品、滑石製勾玉や管玉、臼玉を用いた儀礼をおこなったようです。

 

配置図のアップ。

 

北側には金生山の残ったピラミッド。

 

石灰工場も良く見えました。

 

非常に気持ちの良い墳丘でした