墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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正道官衙遺跡 京都府城陽市寺田正道

久世廃寺跡・久世神社の次に向かったのは正道(しょうどう)官衙遺跡。

 

下記は、その後に訪ねた芝ヶ原古墳にある立体地図。

左手前の久世廃寺跡から右へ、点線の坂を上がり、右(東)へ進むと正道官衙遺跡。上(北)に平川廃寺跡と久津川車塚古墳があります。

古墳と古代寺院、官衙が近接するエリアです。

 

”久世の鷺坂”を上がって住宅街を東へ。


右手(南)方向は下りの地形。


公園として整備された、正道官衙遺跡に到着。建物の様子が柱で復元されています。

 

南側から。

 

公園の南端。

 

築地塀の復元も。

 

南門跡から南方向。

 

北東側に公園を見通せるスポットがあります。

 

そこにあった説明図

 

と、解説板。

史跡 正道官衙(しょうどうかんが)遺跡
昭和49年(1974)9月指定

遺跡の発見
標高40~50mの南向きの台地上にあるこの遺跡は、昭和40年(1965)、台地西端の池畔で瓦片や土器片が見つかり、古代寺院があったと推定されて「正道廃寺跡」と名付けられました。
しかし、昭和48年(1973)2月からの大規模な発掘調査では、寺院跡とみるより、奈良時代の郡衙中心部分と推定される建物群跡が確認sれ、昭和49年(1974)には名称も「正道遺跡(しょうどういせき)」と改められました。その後、付近で部分的な発掘調査を続けた結果、遺跡西側にも建物群跡のあることがわかっています。

国の史跡に
この遺跡は、5世紀の小規模な古墳と6世紀後半から7世紀にかけての集落遺構、そして7世紀以降の整然と配置された大型の掘立柱建物群からなる官衙(奈良時代の役所)遺構などが重なりあう複合遺跡です。
特に官衙遺構は歴史・地理的背景や出土遺物などから、奈良時代の山城国久世郡の郡衙中心部であると推定され、昭和49年(1974)9月、城陽市では最初の国史跡の指定を受け、翌年3月に史跡地全体の約10,850㎡が公有化されました。

史跡の整備
この遺跡は、発掘調査後埋め戻されて長い間広場になっていましたが、遺跡の保存と活用を図りながら、積極的にまちづくりに生かしていこうという機運が高まり、平成元年(1989)2月、文化庁の指導を得て、kの遺跡を含む市内全5箇所の史跡整備構想を策定。翌年、この官衙遺跡の整備基本計画を作り、平成3年(1991)10月から整備工事に着工、平成4年(1992)11月に工事が完成しました。

整備の方法
整備にあたっては、官衙建物群のうち、ほぼ同時期のものと推定される建物群を復元の対象とし、時期を異にする建物遺構は一定の覆土をして地下に現状保存しています。
建物復元の仕方は、発掘調査の結果に基づいて柱の位置を太さを忠実に表現し、一方、柱の高さや柱組みは近い時代の建築様式を参考にして、これらの建物の規模が想像できる「イメージ復元」となっています。
また、遺跡内の樹木は、在来の中から選び、特に奈良時代の「万葉集」の歌に詠まれている、いわゆる「万葉植物」には代表的な万葉歌を添えて紹介しています。

 

万葉歌も。

 

城陽市による、郡司のイメージキャラクターも。