墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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原の辻遺跡 長崎県壱岐市芦辺町深江鶴亀触

壱岐の旅の2日目は、初めに国特別史跡・原の辻(はるのつじ)遺跡へ向かった。 

魏志倭人伝に記載のある「一支(いき)国」の王都と特定されている。

遺跡は復元公園化されており、駐車場のあるガイダンス施設がある。

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国特別史跡 原の辻(はるのつじ)遺跡
長崎県壱岐市芦辺町・石田町(深江田原一帯)
長崎県で2番目の大きさを誇る平野(深江田原:ふかえたばる)にある原の辻遺跡は、弥生時代から古墳時代の初め(今から約2200年前から1650年前)に栄えた国内を代表する環濠集落跡で、国の特別史跡に指定されています。
中国の歴史書「三国志」の中に記された「魏志」倭人伝には、壱岐島が「一支国:いきこく(原文は一大国と記載)」の国名で登場し、当時の様子が57文字で書かれています。
「魏志」倭人伝に記された国で「国の位置」と「王都の場所」の両方が特定されているのは壱岐・原の辻遺跡だけであり、倭人伝に記された内容と遺跡の発掘調査成果を見比べながら「弥生時代における東アジアとの交流の歴史」を解明できる国内唯一の事例として注目されています。壱岐市 

 

その57文字。

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別の説明板。本格的な調査が行われ、特別史跡に指定されたのは平成になってから。

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魏志倭人伝の王都へようこそ
国特別史跡 原の辻遺跡
九州本土の北岸、玄界灘に浮かぶ壱岐は、古来から対馬とともに中国大陸、朝鮮半島との対外交渉に重要な役割を果たしてきました。
中国の3世紀の歴史書「三国志」魏書東夷伝倭人の条(いわゆる魏志倭人伝)には、「一支国」の名で登場し、57字の記載がみとめられます。それによれば、卑狗・卑奴母離という長官と副官がおり、島の広さは四方三百里ばかり。竹や木が茂り、三千ばかりの家がある。田畑はあるが食料が足らず、対馬国と同じように南や北に海を渡って穀物を買い入れて生活していると記述されています。

原の辻遺跡は、大正時代に地元の研究者によって発見され、昭和の初めころに学会に紹介されました。戦後には、県や町の教育委員会及び東亜考古学会などによって発掘調査が行われ、大規模遺跡として知られていましたが、平成5年度以降に行われた本格的な調査の成果によって、わが国を代表する弥生時代の多重環濠集落で、「一支国」の中心となる王都であることが判明し、「魏志倭人伝」に記載された国々の中で、国の中心が明らかになった初めての遺跡となりました。
このことから平成12年11月24日に、弥生時代の遺跡としては、登呂遺跡(静岡県)、吉野ケ里遺跡(佐賀県)に次いで国の特別史跡に指定されています。

 

駐車場脇には船着き場の模型もある。

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船着き場の遺跡は日本最古、東アジア唯一のものだそう。 現場は埋め戻されている。

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船着場跡模型 日本最古 東アジア唯一
■説明
この船着場跡は、平成8年度の発掘調査で発見されました。
弥生時代の川の中に造られており、2本の突堤を荷揚げ場、それとコの字形に囲まれたドック部分と通路からなっています。
突堤の造り方は、
①基礎の部分に木や枝や石を敷き、その上に盛土する
②盛土が崩れないように木で押さえたり杭で止める
③水で流されないように盛土の斜面に樹の皮や石を貼り付け補強する
というハイテク技術が使われています。
この工法は「敷粗朶工法」といわれ。大陸から伝わった技術と考えられますが、東アジアにおける発見例は、ここ原の辻遺跡が唯一です。
なお、船は大阪府九宝寺遺跡で出土した準構造船を参考に復元し、高床式建物や当時の人々の働く姿を再現してあります。
■縮尺:10分の1
■出土地点:丘陵西側約100mの水田
■時代:弥生時代中期
■規模
・東突堤:長さ約12.0m・幅(上部)約5.2m・(下部)約10.7m・高さ約2.0m
・西突堤:長さ約12.0m・幅(上部)約4.5m・(下部)約8.7m・高さ約1.5m
・突堤間の幅:(上部)約11.0m・(下部)約7.0m
・通路:幅約8m
・船の長さ:約12m 

 

遺跡の位置は現状では結構内陸になるが、谷戸が入り組んだ低い丘陵が広がる壱岐島で、ここだけ平坦な地形が広がっている。

 

ガイダンス施設は入館無料。

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入るとすぐに復元古代船がお出迎え。

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館内には出土品のほか、写真パネルや模型が展示されている。 

20分弱のビデオ解説で概要を学んだ。

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バーチャル発掘現場も。 

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遺跡のある場所は平地に浮かぶ島のような微高地。

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詳細な解説。

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「一支国」の王都~原の辻遺跡~
原の辻遺跡は、壱岐島で最も広い流域面積をもつ幡鉾川の流域に広がる「深江田原」にあり、田原(平野のこと)の中の南北方向に長く延びる低い丘陵部を中心にして、その周辺平地一帯に広がっています。
丘陵部では竪穴式住居跡や平地式住居跡、掘立柱建物跡とともに数多くの土坑・柱穴などが見つかっており、弥生時代の生活廃棄物などとともに多量の土器や石器を捨てた土器溜り遺構も数か所で確認されています。また、丘陵の頂上部では主軸方向をほぼ同じにする大型掘立柱建物跡と平地式建物跡などが検出され、ここは祭儀場であったと「されています。さらに、丘陵の裾部に沿って環濠と自然流路(河川)が複雑につながりながら何重にも巡っており、内部面積約16haの大規模な多重環濠集落があったことがわかっています。集落の周辺には船着き場、複数個所の墓域や水田などが広がっており、遺跡全体の広さは約100haに及んでいます。
これまでの発掘調査の結果、原の辻遺跡は今から約2250年前(弥生時代前期後葉)頃から人々が生活を始め、約2150年前(弥生時代中期前葉)には集落の周囲に環濠が巡らされた環濠集落として成立し、約1800年前(弥生時代後期後葉)に環濠が意識的に埋められたあとも約1650年前(古墳時代前期前葉)まで集落が存続していたことが確認されています。そして、集落の規模と中国大陸や朝鮮半島から西日本各地への広範囲に及ぶ交流、交易を物語る様々な出土遺物から、中国の「三国志」魏書東夷伝倭人条」いわゆる「魏志」倭人伝に記載された「一支国」の王都であったと学問的に結論づけられました。 

 

施設から数分歩いて復元公園へ。

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高床式建物や竪穴住居がいくつも復元されている。

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穀物を貯蔵した倉庫群は、クニの始まりのシンボル?

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物見やぐらのような建物が見えた。

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土壁のある竪穴住居は見張り役の兵舎(と書かれていたような記憶が…)

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緩やかな傾斜する広場が気持ちよかった。

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物見やぐらは下から仰ぎ見るだけ。 

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エリアの東縁に立っている。 

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東の低地から見上げて。 

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振り返った丘の上には展望台を備える壱岐市立一支国博物館がある。

http://www.iki-haku.jp/exhibit/index.html

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環濠(?)の堤を歩かせていただいて 

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木杭の並ぶ門から退出。 

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これも環濠でしょうか。

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その後に1か所の古墳を回った後に一支国博物館へ。古墳からの出土品や展望台からの眺めをとても楽しみにしていましたが、自分たちが到着したそのタイミング(12時3分だった)で休館になってしまいました。3月14日のこの時点で、この壱岐島で長崎県初の新型コロナウイルス感染の届け出があったそう。数分前までは開館していたのですが…

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再訪せよとのことでしょう。

 

なんとこの日は博物館の開館十周年で、博物館の方々も大変残念そうでした。紅白饅頭まで用意されていました。

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