墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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福市遺跡・日焼山古墳群 鳥取県米子市福市

米子市立福市郷土資料館を見学した後は隣接する福市遺跡へ。

学芸員の方に、福市遺跡の南側にある米子市埋蔵文化財センターまで歩くのがよいと勧められ、遺跡の中を歩きました。

国指定史跡
米子の古代を語る福市遺跡案内
弥生時代後期(約1800年前)から約300年間にわたる集落と墳墓群の跡である。主な遺構は竪穴住居跡90ヶ所、円墳1ヶ所、土壙墓26基などである。
出土品は、福市考古資料館に保管、展示され、その横には復元住居が1棟ある。
昭和45年(1970)日焼山、吉塚地区39,414㎡が国の史跡指定を受けた。
米子市教育委員会

 

振り返った考古資料館。短辺は蒲鉾形でした。

 

そのとなりの広場。

 

説明板文字は消えていましたが、こちらが以前は復元されていた(?)竪穴住居跡なのでしょう。


すぐそばには箱式石棺も(解説見当たらず)

 

その先で舌状台地に上がると、開けた場所に。

 

手前側が日焼山土壙墓群でした。

国指定史跡 福市遺跡
日焼山土壙墓群
日焼山では、24基の墓がまとまって発見されています。墓は、土壙墓とよばれる素掘りの穴で、とても深いのが特徴です。標準的なもので、上部3m×2m、底部2m×1m、深さは2mもあります。
4世紀~5世紀に吉塚地区に住んでいた人々の共同墓地であったと考えられます。
米子市教育委員会

 

その先に、日焼山1号墳。

 

説明板も日に焼けています。径12mの円墳(4~5世紀)

国指定史跡 福市遺跡
日焼山1号墳
日焼山1号墳は、およそ4世紀~5世紀につくられた円形(径12m、高さ1.7m)の墓です。
南北と東西を向く2基の墓穴があり、吉塚地区のムラの長が葬られていたと考えられています。
米子市教育委員会

 

墳頂の様子。

 

伯耆富士、大山が望めました。

 

墳頂から北側(来た方向を)

 

北側の裾からの日焼山1号墳。

 

その先には竪穴住居エリアがありました。


全体図もありましたが、読みづらいので画像だけで。

 

道路の先に続く住居群エリア。

福市遺跡 吉塚地区
福市遺跡は「山陰で最初に調査され、最大の規模をもつ古墳時代の集落跡で住居跡群と墓地群が確認された唯一の遺跡である」として国史跡に指定されて、保存されている遺跡です。
吉塚地区は、史跡の中心地区となっており、北西に伸びる広い背面をもつ標高25mの丘陵地です。道路によって東西に分断されていますが、調査によって97基の遺構が発見されています。このうちの大半は竪穴式住居で、丘陵背面に密集しており、長期間にわたって古代集落が営まれたことを示しています。
集落が営まれたのは、弥生時代後期(3世紀)から古墳時代後期(6世紀)の間であり、一時期に10~15軒の竪穴住居があったと推定されています。竪穴住居跡の形は、円形大型のものが古く、隅丸方形、方形に移り変わっています。これらの住居跡からは、日常生活に使った遺物として、土器、石器、鉄器、玉類が多数発掘され、中でも土器は壺、甕、高坏の他15種以上の器形がみられ、くらしぶりの豊かさを物語っています。古代の人々は、谷部で農業を主な生業として、狩り、漁なども行いながら集落を営んでいたと思われます。現在これらの遺構は埋め戻され、低い土手とブロックで表示されています。
米子市教育委員会

 

ブロックの周囲に低い土手があるのが分かった遺構。

 

ただ、重なり合っているので、見分けるのは難しいですね。

国指定史跡 福市遺跡
重なりあう住居跡
このあたりでは、福市遺跡のなかでも最も複雑に竪穴住居跡が重なり合った状態で見つかっています。
竪穴住居跡は4世紀~5世紀に建てられたもので、この間に竪穴住居が次々と建てられていった様子をすることができます。