墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

画像が出ない場合はPCで、クロームOSでお試しください。

塩津山1号墳(塩津山墳墓群) 島根県安来市久白町

塩津山墳墓群は前回の宮山墳墓群から西に750mほど。低地を隔てた丘の上に立地。

 

といっても真下を山陰自動車道が貫いていますが(保存に尽力された方々に感謝です)

 

グーグルアースでも明瞭にわかります。

 

丘の東裾、高速の橋のたもとに駐車スペースがあり、そこから見学路が整備されています。

 

見学路入口の解説板。

国指定史跡 塩津山墳墓群(指定名称 荒島古墳群)
荒島古墳群は弥生時代後期後半から古墳時代前期(紀元2~4世紀)を中心とした墳墓群であり、東の塩津山墳墓群、北の大成古墳、西の造山古墳群の三つの支群に分かれている。
塩津山墳墓群は弥生時代の墳墓2基と古墳9基からなり、三つの支群の中では最も古い墳墓群である。1号墳は25×20mの方墳で古墳時代前期につくられたものだが、墳丘の形や外表施設である貼石の特徴は弥生時代の四隅突出型墳丘墓の特徴を色濃く残している。埋葬施設は6基確認されている。中心の埋葬施設(第1主体)である竪穴式石室は調査されていないが、隣接する第3主体は木棺を砂礫によっておおう構造のもので、やはり当時当地の弥生時代の伝統を引き継ぐものである。また、第6主体は器台を呼ばれる土器を棺に転用したもので、用いられた土器は吉備地方の祭祀用の土器の影響が認められ、同地域の首長との交流がうかがえる。
6・10号墓は弥生時代の四隅突出型墳丘墓で、突出部を含めた長辺で40m近い大きさを測り、県内では最大クラスである。また同墳墓群の西側にはこれらの墳墓群とほぼ同時期に営まれた大規模な集落(柳遺跡・竹ヶ崎遺跡)があり、当地が当時の出雲東部において集落と墳墓が一体となった拠点地域であったことがうかがえる。
塩津山墳墓群を含めた荒島墳墓群では弥生時代から古墳時代への移行期にかけての出雲東部地域の最高首長の墓が継続して営まれている。こうした事例は全国的にみてもほとんど例がなく、当古墳群は出雲のみならず日本列島の古墳時代の成立と考える上で極めて重要な古墳群である。
昭和11年(1936)12月16日指定名称造山古墳
平成11年(1999)7月13日追加指定・名称変更
平成13年(2001)3月 島根県教育委員会 安来市教育委員会

 

周辺地図には多くの「墳墓群」が示されています。ここは四隅突出型墳丘墓の集中地帯でした。

 

傾斜の急な坂を上ります。徳島県の大代古墳訪問時を思い出しました。


高速の上に到着。さらに少しだけ上がります(おそらく実物の墳丘はこの盛土の中に保存されているのでしょう)

 

階段を上がると目の前に塩津山1号墳。

 

墳頂の様子。

奥の2号墳がある側と尾根を切り通して、墳丘が形づくられています。

 

墳頂を、登った逆の側から。復元された壺がまとまって置かれていますが、吉備の特殊器台のようなものも(奥)


塩津山1号墳の解説。

国指定史跡 塩津山1号墳
弥生時代の終わり頃、倭国では戦乱がくり返されていました。各地に小国家が分立して異なる文化圏を形成し、王のお墓や儀式も地域ごとに変化に富んでいました。
このような群雄割拠の時代に出雲東部のリーダーであった荒島の王は、出雲西部、伯耆、因幡、そして遠くは北陸地方まで日本海側の王達と、四隅突出型墳丘墓と呼ばれる独特の形のお墓をシンボルとして深いつながりを持っていたと考えられています。
古墳時代に入ると、争っていた国々はヤマト政権を中心に東北南部から九州まで全国的な規模でまとまります。このことは、現在の日本国の原型が初めて出来た画期的な出来事でした。
そこでは前方後円墳を代表とする共通の約束事に従ってお墓(古墳)を造り、そこで共通の儀式をが行われました。
荒島の豪族は、新たなる時代の幕開けを出雲地域の盟主として迎え、中海を見下ろす丘陵に大成古墳や造山1号墳など全国最大級の方墳を相次いで築きました。
このような時代に築かれた塩津山1号墳は、南北25m、東西20m、高さ3mの中規模の古墳ですが、中心となる埋葬施設に竪穴式石室を採用するなど全国的に共通の約束事にもとづいて築かれる反面、外側の石の積み方や埋葬での砂の使用など弥生時代の王墓の特徴が合わせて見られる全国的に貴重な古墳です。
現在見られる墳丘は発掘調査の成果をもとに築造当時の姿に復元したもので、本物の古墳はこの下に保存されています。
2001年3月 安来市教育委員会

 

塩津山1号墳(中央)では、四隅突出型墳丘墓から方墳へと変わっていく段階にあるようです。

 

南東側の隅が、ちょこんと突出している感じです。

 

貼石の解説。葺石と貼石とは違うことを認識しました。

1号墳 貼石
1号墳は平野側から見栄えがする北側と東側の斜面にだけ石が貼られていますが、北東隅の近くでは裾と斜面に大きい平らな石を貼り付けています。裾部分と斜面の部分に大きい平らな石を貼り付けています。このような石の使い方は「貼石(はりいし)」といって、弥生時代出雲の王墓として造られた四隅突出型墳丘墓で見られるものです。

 

貼石は、下から見えないところは省略されています。

1号墳 南東隅
1号墳は尾根を削って整えられていますが、南側は不可さ2m以上もの溝を掘って区画しています。東側の斜面から続く古墳の表面を飾る貼石は、この南東隅の部分まで確認されましたが、平野側から直接見えない西側と北側では確認されず、省略したものと考えられます。裾では壺が1個出土しています。

 

南側から見る1号墳。

 

その背面側にある2号墳。


古墳時代後期の円墳です。

 

2号墳から1号墳を。

 

2号墳の南側や1号墳の北側に、大型の四隅突出型墳丘墓である6・10号墓なども残っているようですが藪の中になるので次の機会としました。

 

1号墳からの眺め、東方向。

 

西方向(もともとは全体が山ですね)