前回エントリの西谷3号墓から見た西谷2号墳。
奥行(南北)36m、左右(東西)24mの四隅突出型墳丘墓。古墳時代の前の弥生時代の築なので、”古墳”ではなく”墳丘墓”になります。
べろんと伸びる隅。
その説明板。
西谷2号墓(四隅突出型墳丘墓)
方丘部は南北36m、東西24m、高さ約4mを測り、突出部を含めると約50mの大型の四隅突出型墳丘墓です。
墳丘の斜面には貼石、墳端には立石・敷石を並べています。墳端の配石構造は西谷3号墓と同じく2段になっています。墳丘は大半が失われていましたが、残丘部に大型の埋葬施設(第1主体)があり、木棺には朱が敷かれていたようです。
また、中心埋葬施設があったと推定される場所からは、ガラス釧(腕輪)、ガラス管玉、朱、吉備の特殊土器などの遺物が出土し、葬られた人物が広い範囲との交流を持っていたことがうかがえます。
出土土器から弥生時代後期後半(2世紀後半頃)につくられたと考えられます。
さあ墳頂ステージへ参りましょう!
上がって振り返って。
ここも広々としていました。
すぐ南には3号墓。
3号墓より若干低い立地ですが、現在の見晴らし(北東の宍道湖方向)はこちらのほうが良かったです。
ズームで。中央は斐伊川に架かる山陰本線の鉄橋。
2号墓は、中に展示室がつくられての復元です。
意外に大きな展示室。
充実のパネル類の一部を。
よみがえった西谷2号墓
整備前の2号墓は、墳丘のほとんどが削り取られていました。今回の整備では、わずかに残った墳丘を土で覆って保護し、発掘調査の成果に基づいて石も貼り付けました。こうして2号墓の壮大な姿がよみがえりました。
さらに、内部に展示室を設けました。発掘調査で見つかった2つの埋葬施設の位置には、土層を再現したパネルや出雲王の埋葬状態の復元模型を実際の大きさで展示しています。
残っていた墓穴の痕跡
2号墓の発掘調査では、わずかに残っていた墳丘から墓穴の痕跡が発見されました。2号墓で最初に見つかった墓穴であることから「第1主体」と名付けられています。第1主体は墳丘の南端にありましが、棺は当時としては大変貴重な朱が敷き詰められていたことがわかっています。
左の土層パネルの奥には、本物の土層が今でもそのままの状態で保存されています。
2号墓の中心に眠る王
2号墓の中心付近で真っ赤な朱とガラス腕輪が発見されました。このことから、ここには最も重要な埋葬施設、すなわち「中心主体」があったと考えられます。
しかし、墓穴は完全に壊されていたので、その構造を知ることはできません。
そこで、右側の展示では西谷3号墓第1主体の発掘状況を再現しました。ボタンを押すと、2号墓のガラス腕輪を装着した埋葬当時の出雲王の姿が浮かび上がります。
そのボタンを押すと!
復元の様子は外の説明板に。
2号墓の北、墳墓群の北端に1号墓。
小型ですが四隅突出型墳丘墓。
西谷1号墓(四隅突出型墳丘墓)
小型の四隅突出型墳丘墓です。墳丘の北側が失われていますが、南東側は貼石・敷石・立石が残っており、墳端の配石構造は1段になっています。また墳頂部では埋葬施設と考えられる土壙が4基確認されています。
弥生時代後期後半(2世紀後半頃)につくられたと考えられます。
西側はすぐ隣が高校野球場。
2号墓を東側斜面下から。
この北側で、2号墓整備中に横穴墓が発見されていました(現状は埋め戻し)
2021年10月上旬訪問。
つづく。