網野銚子山古墳は、2017年の調査で全長201mとなった日本海側で最大規模の前方後円墳です。
前回の岡1号墳から1.4㎞南西、網野市街地の南端の丘上の立地。
府道53号のここから枝道に入ります。
細道を上がって行くと墳丘の裾に。
高さがあります。階段を上がります。
裾にあった説明板。ここでは全長198m。
国指定史跡
網野ふるさと自慢百選28
銚子山古墳と陪塚
網野銚子山古墳は全長198m、後円部径115m、同高16m、前方部幅80m、同高10mを測る日本海側最大の前方後円墳です。墳丘は3段に築かれ、それぞれの斜面には葺石が葺かれていました。また各段のテラス上には、丹後地域に特有の円筒埴輪(丹後型円筒埴輪)の列がめぐっていました。前後には小銚子山古墳と寛平法皇陵古墳の2基の陪塚を従えています。4世紀末~5世紀初頭に丹後地域を治めた有力者が葬られた雄大で整美な古墳です。
京丹後市教育委員会
前方部墳頂手前にて。左奥が後円部です。
振り返った前方部左裾方向。
前方部先端から後円部方向を。200m級は、でっかい!
右手に網野の街が広がります。
左(南東)側は整備中でした。地ならしされた周溝部には何かできるのでしょうか。
京丹後市のサイトによればこの方向、墳丘南側には幅17m~25mの周溝がめぐっていたことが発掘調査からわかったそう。
築造時期は4世紀末から5世紀初頭の古墳時代前期で、丹後地方では弥生時代後期から古墳時代前半に大きな勢力をもった政治勢力があった可能性(いわゆる「丹後王国」)が指摘されているとのこと。
埋葬施設は未調査ですが被葬者は少なくとも大和政権と関係を持ち、大陸との交易等にも携わったこの地方の有力者であると考えられているそうです。
後円部に接近します。
斜面が大きい。
階段を上がって振り返って(スマホ広角で)
広い後円部墳頂、その中央に標柱。
日本海まで見えてます。
瓦屋根が水面のようでした。
下記のサイトによれば、古墳の設計図は佐紀陵山古墳(日葉酢媛陵:奈良県・全長207m)と同じであるという研究もあり、ヤマト政権とも強いつながりを持った地域の実力者がいたことがうかがえるとありました。
遺跡編(7)網野銚子山古墳(京丹後市) 屈指の規模「海の古墳」|文化・ライフ|地域のニュース|京都新聞
後円部斜面に小径があったので降りました。
裾から見上げた後円部。三段築成が明瞭に。
右が網野銚子山後円部、左は陪塚といわれる小銚子山古墳。
小少子山古墳は径36m・高さ4.8mの円墳です。
その東側の、梅咲き乱れる小径。
墳丘の南東側。こちら側から伸びてきた丘陵の先端に、墳丘が築かれています。
墳丘を南側から。右奥へ前方部。
久々にパノラマで。
くびれ部、鞍部が素敵です。
額田大玉さんのサイトで、現地説明会(2018年10月18日)の様子がよくわかります。
グーグルアースでもよくわかる墳形。
前方部左裾側から広角で。
前方部先端側を。
その背面にも陪塚が。
大きく削平されて墳形不明の、この寛平法皇陵古墳からは凝灰岩製石枕(市指定文化財)が出土したと伝わっているそう。
墳丘を街からも眺めてみました。
福田川にかかる橋から。
木造瓦屋根の魅力的な街でしたが、次の古墳へ。