離湖の水辺には、復元石室もありました。
道路沿いの見学しやすい古墳です。
説明板はちょっと読みにくくなっていました。昭和42年に、北西200m地点から移築されたそうです。
横穴式石室(岡古墳)網野町字小浜
この石組みは横穴式石室と呼ばれるものです。もとはこの地点から約200m北西にあったのですが、昭和42年にこの場所に移築されたものです。
大きな石を組み合わせて横穴式石室を作る技術は朝鮮半島からもたらされたものであり、わが国では6,7世紀に盛んに作られたものです。
岡古墳は7世紀初めに作られたもので、石室の中から6体の人骨のほかに、環頭大刀・鏃・刀子などの武具、勾玉・管玉・切子玉・丸玉などの装身具、さらに馬具や土器類などたくさんの副葬品が発見されました。
離湖の周辺には、城山古墳・離古墳・くらがり古墳など、岡古墳と同じような時期に作られた古墳がたくさんあり、古墳時代にこの地方が栄えていたことを物語っています。
また、樋越川の川口付近の宮ノ下遺跡からは約7,8千年前の縄文式土器が発見されており、岡古墳の南方からは約1800年前の弥生式土器も発見されています。
このような遺跡や遺物は、文字の無かった時代の人びとのくらしを知るための貴重な資料ですから、大事に保存する必要があります。
昭和56年9月 京丹後市教育委員会
北西方向は住宅地。
まるでもとからここにあったような感じでした。
広い室内。
奥壁の様子。
奥壁に向かって右側の側壁。数字は復元の苦労の跡ですね。
奥壁から開口部を。
ここで石室内地面にあるものに気づき驚愕。
ここから先は不快な話になるので、食事中の方は飛ばしてください(画像は無いですが)
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とぐろを巻いていたので一瞬、蛇かと思いましたが、人間の〇〇でした。
すぐ近くに、煙草の吸殻とライターが放置されていたので間違いないです。
(なぜライターまで… そして紙がないのが不思議でした)
もとはお墓であることを知らない方だったのでしょうか。
あと一歩で踏むところでした。
古墳探訪には様々な危険が潜んでいますので、みなさまも行かれる際は十分ご注意ください。
東側から見た墳丘。
そこから振り返った離湖と離山。ちょうど日が昇ったところでした。