墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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ニゴレ古墳 京都府京丹後市網野町島津

この日(3月11日)の最後に訪ねたのは、宿の近くにあったニゴレ古墳。

 

詳細な説明板も。

ニゴレ古墳(古墳時代中期)
不整形墳 全長約20m 埴輪列
古墳は離湖(はなれこ)網野町と竹野川流域(弥栄町)を結ぶ交通路を見下ろす丘陵先端に位置します。昭和29年(1954)、峰山高等学校弥栄分校郷土史研究同好会によって埴輪が採取されたことが契機となり、その後弥栄町教育委員会と京都大学によって調査が行われました。
墳丘は全長約20m程度の地山を削り出した不整形墳です。北側の丘陵との切り離し溝には幅0.8~1.7m間隔で13本の埴輪列がありましたが、葺石や段築は認められません。墳頂部ほぼ中央で木棺(割竹型木棺)を検出しています。木棺内は、遺骸を東枕で埋葬し、頭側に鉄製甲冑、左側には剣、足元には鉄鏃束が副葬されていました。完形で出土した鉄製甲冑は技術的にも注目すべきもので、丹後の中でも最も早い時期に、朝鮮半島から導入された進んだ金工技術に成立したものと考えられています。
墳丘上では形象埴輪が採取されています。甲冑、船、椅子、家など写実的なもので、畿内の専門工人が関与していたとみられています。
弥栄町では、竹野川対岸に「奈具岡北1号墳」(溝谷区)という朝鮮半島との関係を強くうかがわせる古墳が先行して存在し、ニゴレ古墳の甲冑に見られるような金工技術の伝来にも関与していた可能性も、最近の調査成果を基に指摘されています。また、ニゴレ古墳に近接する「遠處(えんじょ)遺跡」のような製鉄遺跡が成立した背景を考える上でも、重要な位置を占める古墳と言えるでしょう・
丹後市教育委員会

 

説明板の写真部分。

 

墳頂の様子。

 

墳頂から南東方向に開けていました。

 

1.3㎞ほどで竹野川沿いの平野に出ます(その北端には黒部銚子山古墳、河口近くには神明山古墳)

また北西方向に1.7㎞ほどで離湖のある平野部に(平野の南縁、福田川沿いには網野銚子山古墳)

ニゴレ古墳がその中間点にあることがわかります。

 

この日は、ニゴレ古墳から350m南にある「道の駅 丹後王国」併設の「ホテル丹後王国」に宿をとりました。

 

大浴場のある気持ちのよい宿でしたが、このときは食事の施設がすでに終了しており(17時で閉店)、近くに食事処が無いとのことで、夕食はローソン京丹後弥栄店のお弁当となりました…