墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

熊堂古墳群 岩手県花巻市上根子熊堂

胆沢城跡見学後、近くの水沢ICから東北自動車道に乗って、当初は予定していなかった花巻の熊堂古墳群を訪ねた。

前々回の、日本最北の前方後円墳・角塚古墳から、ほぼ真北に25kmの地点になる。

 

花巻ICを下りて2分で熊野神社に到着。

 

まずは参拝。

 

拝殿に向かって右側に墳丘の群れがあった。

 

境内にあった説明板。

花巻市指定史跡 熊堂古墳群
指定年月日:平成3年5月24日
所在地:花巻市根子
熊堂古墳群は、8世紀頃、現在の上根子地域に拠点を置いていた「蝦夷」の墓と考えられており、発掘調査で熊野神社の境内を中心に10数基が確認されています。小山状の墳丘は直径約10m・高さ1.5m、周囲が円形の溝で囲まれており、中央部に川原石を積んだ石室があって、そこに棺が納められていました。副葬品は、勾玉・切子玉などで、この地域に朝廷の勢力が及んでいたことを示す資料と見られています。
出土資料は花巻市博物館に展示されています。
花巻市教育委員会

 

神社由来にも古墳について記されていた。熊野神社坂上田村麻呂が勧請したそうだ。蝦夷の墓域に建てた理由を知りたくなる。

熊野神社由来
祭神 伊佐那岐命、伊佐那美命、宇加之御魂命
建立 大同元年(806)4月3日
延暦21年(803)坂上田村麿将軍が胆沢の蝦夷を平らげて胆沢城を築き、ここを根拠地として更に北方の平定を企て翌年、志和城を築いて北辺の警備の地としました。その時代は道路も橋も無く胆沢城と志和城との距離は一日では到達できないため両城の中間に盤基駅を設けて相互の連絡を容易に出来るようにしました。その盤基駅が今の熊野であるとされております。そして坂上田村麿将軍の信仰しておりました熊野大権現を勧請しました。以前は三熊野と称して、現在地と鬼屋敷と道願と三社ありましたが、明治維新後現在の熊野神社に合祀されました。
ではなぜ盤基駅が熊野であったかと申しますと、上根子には蝦夷塚と称される数多くの古墳群がありました。その数48,9との事でしたが、その古墳から大和民族の東北開拓時代に、有位の官人が用いていた物が数多く出土されていることから盤基駅は熊野であることが判明しました(岩手県立博物館にも出土品の一部が展示されてあります)
この古墳群も天保年間(1830年頃)まではそのまま保存されていましたが、時の奉行の命令で畑地に開墾され、原形を残しているものが今では一ヶ所もありません。

 

生垣に囲まれたA-9号墳、右奥がA-10号墳。熊堂古墳群にはA~C群があり、熊野神社境内にはA群の10基ほどが残っている(一部復元か)

 

9号墳と拝殿と。

 

9号墳の背後に8号墳。

 

10号墳の北側に2基。

 

林の中には石室を開けた2基があった。

 

濡れた石が光っていた2号墳。

 

しゃがんで見た石室。6,7段に積まれた川原石が残る。奥壁の石は少し大きめ。

 

奥壁前から振り返って。

 

もうひとつの石室は4号墳。

 

4号墳は石が長方形に一巡り。竪穴式の埋葬形式のようだ。右奥が2号墳。

 

社殿の後ろ側にも墳丘が。

 

8号墳の後ろ側から。

 

大きな石碑には、月山三社、鳥海山金華山と刻まれていた。