墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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江釣子古墳群(長沼支群) 岩手県北上市和賀町長沼

前回の花巻市熊堂古墳群見学後は東北道を南に戻って北上江釣子ICで下り、東北道がその上を通る長大な江釣子古墳群へ向かった。

 

江釣子(えづりこ)の地名由来は、北上観光コンベンション協会のサイトに、アイヌ語での「神々の遊び場」とある。

http://www.kitakami-kanko.jp/kanko.php?itemid=2445

 

「随想アイヌ語地名考」というサイトではさらに詳しく、神々の・遊び場=カムィ・ヘチリコ(kamuy・hechiriko)であり、ヘチリコには輪になって踊る所という意味もあるので「神々が・輪になって踊る・所」とも解釈され、「えづりこ」の地名はエミシ社会に貢献した族長クラスの人たちが特別に埋葬された聖地を意味するとも紹介されていた。

http://www.st.rim.or.jp/~success/oh/ainu45-50.html


江釣子古墳群は和賀川北岸の五条丸・猫谷地・八幡・長沼の各古墳群の総称で、直径6~15mの円墳が約120基以上、7世紀後半から8世紀前半にかけて造られている。

 http://www.kitakami-kanko.jp/kanko.php?itemid=200&catid=74

 

東端の八幡支群と西端の長沼支群とは5km以上離れている。まずは西端の長沼支群へ向かった。

 

グーグルマップに導かれ、和賀川に沿う農道を西へ向かい、最後に北へ比高差7mほどの河岸段丘を上ると、校内に墳丘が残る和賀東中学校があった。

最寄駅の北上線藤根駅から徒歩17分だが、昼間の運転間隔は3時間に1本になってしまうので、鉄道利用だと古墳群全体の見学は難しい。

 

門の左脇、道路に向かって説明板がある。

国指定史跡 江釣子古墳群(長沼古墳群)
所在地:北上市和賀町長沼
所有者:北上市
指定年月日:昭和55年3月24日
長沼古墳群は、和賀川北岸の自然堤防上に立地し、隣接する猫谷地・八幡・五条丸と同じく古墳時代末期(7世紀後半~8世紀前半)の円墳群である。
昭和47年(1972)和賀東中学校建設に伴う発掘調査が行われ、その結果、13基の古墳が確認された。直径7~11.5mの周溝をもち、主体部が河原の小石を小口積で長方形に積み上げた石室であることが判明した。石室は横穴式石室の構造をもつが、極めて狭長であり、遺体の埋葬は竪穴式に行われたものと考えられている。
石室内からは、鉄刀三振分、勾玉・切子玉など玉類8個、錫製腕輪2個が出土している。なかでも3号墳からは、ゴールドサンドウィッチグラス(金層ガラス玉)と呼ばれるガラスとガラスの間に金箔を挟んだ直径1.1cm、高さ1.85cmの玉が一個出土した、この金層ガラス玉の分布は、韓国、中国、東南アジア、インド、イラン、黒海北岸などがあげられ、日本では奈良県新沢千塚古墳、同鴨山古墳から出土しているにすぎない。特殊な製作技法によるもので、当時においてガラス生産の先進的中心地であったオリエント地方から朝鮮半島を経由してもたらされた可能性がきわめて高い。
江釣子古墳群は、蝦夷の住む辺境の地とみなされた陸奥の国北部の小古墳である。奈良時代前期において、律令政府と朝貢関係にあった蝦夷が公的使節の交流によってもたらされた文物のなかにゴールドサンドウィッチグラスの玉が含まれていたのであろうか。小さな玉の旅の終着地である。
平成4年3月 北上市教育委員会

 

看板脇から校舎の方向。校舎への道の西側。

マウントがポコポコと。

 

校門付近から。墳頂に番号札があるようだが遠目には読めず。

 

校舎への道の東側。

 

説明板には13基を確認とあったが、10基も数えられなかった。

 

校門前から南側。奥の木立が和賀川沿いの八幡神社か。

 

校門前の道沿いに「山の神スズ」という看板があった。

あとで調べると「スズ」とは湧水ポイントのことで、和賀川北岸は、段丘縁に「スズ」が連なる、”低い国分寺崖線”のようなスポットだった。