伊予墳行の2ヵ所目は、高縄半島の東側に突き出た笠松山の北麓にある野々瀬古墳群。西条市から今治市に入ったところで、頓田川(とんだがわ)支流の左岸に展開。
農道を上がって行くと古墳群の看板がありました。
もともとは100基以上の古墳群で、現在20基が残ります。
野々瀬古墳群
野々瀬古墳群は、瀬戸内海国立公園笠松山のふもとに点在する県下最大規模の群集墳といわれており、確認できる古墳はいずれも円墳で、6世紀後半から7世紀前半に造られたものです。
昭和初期には松林の中に100基以上の古墳が確認されていましたが、戦後食糧増産のために林を切り開き開墾されました。そのため多くの古墳が破壊され、現在、墳丘や石室が残っているものは20基程度です。
古墳は私たちの祖先の墳墓であり、貴重な文化遺産です。大切に保存し、後世に伝えることは私たちの責務です。
平成25年2月 今治市教育委員会
上記と道を挟んだ斜め先に、五間塚古墳(ごけんづかこふん:野々瀬12号墳)の説明板。
今治市指定史跡 五間塚(ごけんづか)古墳(野々瀬12号墳)
野々瀬古墳群の中では、七間塚古墳に次いで2番目に大きく、地元では王塚とも呼ばれています。墳丘形態は円墳、直径15~16mと推測されます。石室形態は両袖式の横穴式石室を採用し、羨道(石室入口道)と玄室(石室本体)との境に、立派な玄門立柱石(袖石)を両側に構え、框石で入口を区別し、玄室が一段下がる構造としています。玄室内は高さ約2.6m、最大幅約2.05m、奥行き約6m、使用石材も大形の花崗岩を用いており、当時の築造技術の高さをうかがい知ることができます。
平成元年(1989
)にトレンチ調査を行った結果、首飾り(切子玉、管玉、土玉)、耳環(耳飾り)などの装飾類や、鉄製品(鉄鏃、刀子、鉄鎌など)といった副葬品が出土しています。また周辺には陪塚と思われる石棺墓が新たに確認され、人骨などが出土しています。構築された年代は、石室構造や出土遺物から7世紀前半と考えられています。
昭和48年10月15日指定 今治市教育委員会
説明板の後ろに高さのある墳丘が。
回り込むと開口部。
覗き込むと大きな石室!
フラッシュで。
北東の、海方向へ開口していました。
隣には「陪塚古墳」の表示がある石棺が露出していました。