前回のつづき。この日は武蔵野線にお世話になった。
東所沢から北朝霞へ行って朝霞市博物館を見学した後、南浦和で乗り換えて北浦和の埼玉県立近代美術館で遠藤克利展を見てから南浦和に戻り、東浦和へ向かった。
最後の目的地は木曽呂の富士塚。
東浦和駅で降りてから富士塚へ向かう道は、江戸期に掘られた水路に沿っていた。
駅を出てすぐに「見沼代用水西縁」を渡る。南へ流れる水路。
水路の脇に、土地の言い伝えの掲示板があった。
見沼の笛 見沼の伝説
昔、このあたりの見沼が、まだ満々と水をたたえていたころのこと。
夕暮れになると、沼のほとりのどこからか、美しい笛の音が流れてきます。そしてその笛の音に誘われるかのように、村の若い男たちが一人、また一人と沼のほとりから消えてゆきました。
村の若者は、だんだん少なくなって、お百姓もできなくなるほどになりました。困った村人たちは、これはきっと見沼の主が、なにかを怒ってなされるにちがいない、見沼の主の心を鎮め、いなくなった若者たちを慰めるため供養塔を建てることにしました。そして大きな石の塔を建て、ねんごろに供養しました。それ以後は、不思議な笛の音は、ぴたりとやんで、行方不明になる若者もなくなり、再び村は平和になったということです。
昭和59年3月 さいたま市
そこから東に分岐する水路があった。
両岸に木立が植えられた水路があった。
ここが国の文化財に指定された見沼通船堀(みぬまつうせんぼり)だった。
国指定史跡 見沼通船堀
昭和57年7月3日指定
見沼通船堀は、江戸時代中頃に築造された閘門式運河です。徳川幕府の命を受けて、見沼の新田開発を行った幕府勘定方井沢弥惣兵衛為永によって、享保16年(1731)、東西の見沼代用水路(農業用水路)と排水路である芝川の間に開かれたのが見沼通船堀です。
見沼代用水路と芝川の間の、3mの水位差を調整するために、東西とも2ヶ所の閘門が設けられていました。
通船堀の開通によって、江戸からの船が見沼代用水路縁辺の村々へ、また見沼代用水路縁辺の村々から江戸へと舟運が発達しました。
この運河は、大正末年に使われなくなりましたが、その遺構は、我が国の土木技術や産業交通の発達を知る上で極めて貴重なものといえます。
平成24年3月 さいたま市教育委員会
東に伸びる堀の北側には草地が広がっていた。
堀の対岸にも散歩道があったが、行きは北側の道を歩いた。
対岸の竹林。
しばらく進むと閘門があった。
仕切りを入れて水位を調節する仕組み。
先の解説とほぼ同内容の説明板があった。
通船時は堀の土手から船につけた綱を引いて通した、という新たな情報があった。
機能するように復元されているのだろうか。
さらに進むと南北に流れる川に行き当たった。
現地に立つ案内図。上が南。右から歩いてきて中央の芝川に突き当たっている。
一旦広い通りの橋を渡って、左(東)の通船堀東縁へ向かう。
上の地図の上部で左右に通る道路はかつての八丁堤だった。
八丁堤
所在地:さいたま市緑区大間木~川口市木曽呂
八丁堤は、関東郡代の伊奈半十郎忠治が築いた人工の堤である。この堤は、長さが8町(約870m)ほどあるのでその名がつけられた。
徳川家康の関東入国後、伊奈氏は累代治水事業に力を尽くし、利根川や荒川の流路を替えたり灌漑用水池をつくるなど関東地方の治川事業を次々に完成させた。見沼溜井もその一つである。
寛永6年(1629)、伊奈忠治は、両岸の台地が最も接する旧浦和市大間木の附島と川口市木曽呂の間に八丁堤を築き灌漑用水池をつくった。その面積は1200haに及ぶ広大な溜井であった。この溜井は、下流地域221か村の灌漑用水として使われたが、大雨が続くと氾らんしたり、旱ばつのときは、水が足りなくなったりするなどいろいろ不都合が出て、享保12年(1727)、八代将軍吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛為永によって干拓されるに至った。また、この八丁堤は、寛永6年に伊奈忠治が陣屋を構えた赤山に通ずる「赤山街道」の一部である。
昭和58年3月 さいたま市
現地では理解不足だったが、後で下記のサイトを見て、壮大なプロジェクトであったことを知った。江戸初期の利根川東遷(と荒川西遷)に関わる事業で、大河を振り分けた中間地帯の農業用水不足を補うために8町(870m)の堤を築き、周囲40数km・面積1200ha・平均水深1mの「見沼溜井(ためい)」を完成させた。
その後の江戸中期・享保の改革では新田開発の対象となり、干拓されて「見沼たんぼ」が生れたが、東西の縁に利根川から用水を引き(見沼代用水)、中央に排水目的の芝川を通している。
http://www.minumatanbo-saitama.jp/outline/history.htm
このとき干拓された農地は開発の波で面積を減らしながらも、見沼代用水沿いが「見沼たんぼ」として緑地空間が残され、その総面積は1260haにもなるとのこと。
それは皇居140haの9個分の広さ、または成田空港1100haに葛西臨海公園2つ(81ha×2)を足した面積に相当する。
芝川にかかる橋から上流方向。
芝川と通船堀とが交差するあたりのには水神社があった。かつてはそばに河岸場があったそうで、芝川と東西の用水路沿いには59ヶ所の河岸場があったとのこと(水神社にあった解説板より)
東側の通船堀は改修工事中だった。
川底に石が貼られている。
工事中の堀を眺めながら進むと、見沼代用水東縁に突き当たり、対岸に木曽呂の富士塚が聳えていた。
向こう岸、木曽呂の富士塚がある場所は川口市になる。 川口市といえば赤羽の対岸のイメージだが、北に8kmのこのあたりまで広がっていて市の面積は約62km²、山の手線内の面積(63km²)に近い。
真っ直ぐ渡れる橋はないので、左右どちらかから回り込んでいく。
木曽呂の富士塚については次回のエントリで。
帰り道、通船堀の南側通路へ。
右手に堀が通っている。
2,3度、人とすれ違った。
南岸にあった説明板には「浦和市」教育委員会と記されていた。
歴史の道 見沼通船堀
見沼通船堀は、享保16年(1731)に幕府勘定吟味役井沢弥惣兵衛為永によってつくられた我が国最古の閘門式運河です。通船堀は代用水付近の村々から江戸へ、主に年貢米を輸送することを目的として、東西の代用水路と芝川を結ぶかたちで八丁堤の北側につくられたものです。東縁側が約90m、西縁側が約645mもありますが、代用水と芝川との間に水位差が3mもあったため、それぞれ関を設けて、水位を調節し船を上下させました。関と関の間が閘室となり、これが閘門式運河と呼ばれる理由です。この閘門をもつことが見沼通船堀の大きな特徴となっており、技術的にも高く評価されています。
通船堀を利用して江戸に運ばれたものは、年貢米の他野菜、薪炭、酒、柿渋などの代用水付近の村々の生産物で、江戸からは肥料、塩、魚類、醤油、荒物などが運ばれました。
船を通すのは、田に水を使わない時期で、初め秋の彼岸から春の彼岸まででしたが、後に冬場の二ヶ月程と短くなりました。通船は、明治時代にも盛んに行われましたが、陸上交通の発達などによってすたれ、大正時代の終わり頃には利用がなくなり、昭和6年の通船許可の期限切れとともに幕をおろしました。
見沼通船堀は、江戸時代中期の土木技術や流通経済を知る上で貴重な文化財なため国の史跡に指定されています。また通船差配(船割役)の鈴木家住宅も合わせて指定され、保存されています。
文化庁 埼玉県教育委員会 浦和市教育委員会
地図の部分のアップ。上が南。鈴木家住宅は見学しそびれてしまった。
散歩道終盤の竹林。落ち葉が湿気を吸収しているようで、林の中はからっとして気持ちよかった。
たどりついた東所沢駅。この日の歩数は2万4千歩となった。