前回のつづき。
この日の最後の目的地、有形民俗文化財として国の指定を受けている木曽呂(きぞろ)の富士塚へ。
東浦和駅から見沼通船堀沿いに歩いてきて、見沼代用水東縁にかかる橋を渡ったところ(八丁堤側)
2本ある道の奥(右)を進まないと富士塚へ辿り着けない(車ではもう一本先を左折)
台地の縁に築かれたタイプ。
崖側に入口を塞がれた胎内窟があった。
下からの登山道を進む。
途中に胎内窟のもう一方の塞がれた入口があった。どちらの斜面もコンクリで補強されていた。
台地上への最後の上り。
上ってから振り返ったところ。強い日差しの一日だった。
台地上からの標高差は5.4m。標柱は皇太子行啓(2006年)の記念碑。
山頂への階段。
山頂はシンプルで、祠的なものは見受けられなかった。火口の穴を模したゆるやかな窪みがあった。
山頂から西側。標高差は15mほどか。
ズームすると見沼通船堀沿いの道が写った。
東側は台地上なので標高差は5mほど。
北側には社殿もあった。
別ルートで下山。
講碑が並ぶ。
左の講碑には丸に参の字が書かれている。
麓に解説があった。
国指定有形民俗文化財 木曽呂の富士塚
昭和55年4月24日指定
富士塚は、富士山を模して築造した塚で、江戸高田の行者藤四郎が、老若男女だれでも心やすく、富士山に登山できるようにと、安永9年(1780)、高田水稲荷(みずいなり)の境内にこれを築いたのが始まりである。
木曽呂の富士塚は、地元で”ふじやま”または”木曽呂浅間”と呼ばれ、寛政12年(1800)に、富士講の一派である丸参講(まるさんこう)の信者蓮見知重(はすみともしげ)の発願によって、見沼代用水と通船堀(つうせんぼり)の連結点の縁に築造されたもので、高さ5.4m、直径20m、塚全体が盛土で築かれている。頂上には、お鉢めぐりができるように火口が掘ってあり、又、今日では入口が埋没しているが、塚を貫いて胎内くぐりの穴を設けている。
富士塚の麓には、文化2年(1805)造立の蓮行知道居士(蓮見知重)の碑があり、富士塚築造の由緒が刻まれている。この他、塚ならびに周囲には、享和4年(1804)の石燈籠、天保4年(1833)の石鳥居等、丸参講によって造立された石造物が多く残されている。
富士塚の中でも古い築造で、特に埼玉県下のものでは最も古く、庶民信仰の様相を示すもので、貴重である。
昭和57年2月 文化庁、埼玉県教育委員会、川口市教育委員会、蓮見武夫
実測図のアップ。
こちらの講碑にも丸参講の「参」の字。登山三十三度と刻まれていた。
社殿にも参拝。
社殿脇から見上げた山塊。
社殿前から鳥居方向。
鳥居の外側にあった説明板。内容は麓にあったものとほぼ同じだった。
鳥居の先は住宅地があった。富士塚敷地の右手には料亭があった。
左手には富士塚を寛政12年(1800)に築いた蓮見知重の子孫が経営する蕎麦屋があったことを、後で下記のブログで知った。
http://gosyuripo7.exblog.jp/24259008/