前回のつづき。
座喜味城址公園の入口にある読谷村立歴史民俗資料館は長期休館中だったが、いくつか屋外展示があった。
沖永良部島から1972年に移築された「高倉」
床下が屋根の軒付近まで上がっているのは風通しをよくして湿気を防ぐためだそうだ。
こちらはサーターグルマ(砂糖車)
大きな歯車が噛み合っている。
解説があった。
サーターグルマ
サトウキビをしぼる車(圧搾機)のことです。砂糖車は木製から石製へと移り変わり、現在当館に展示されているものは鉄製です。砂糖車は引かせ木につないだ牛や馬が回ると中央の歯車が回転し、左右の歯車も回ります。左右の車は回る方向が違うので、一方からサトウキビを入れて反対側で受け取り、さらに片方の車に通して汁をしぼり出します。流れ出た汁は桶に溜め、それを鍋で炊いて石灰を入れて固めます。
エントランスの壁にはパネルがいくつか掲げられていた。こちらの上段の写真は「1945年4月1日に読谷村の西海岸から上陸する米軍」とある。
沖縄戦で日本軍は、住民を十分に避難させないまま、敵軍の上陸を招き、戦争を遅らせる時間稼ぎをしたため、多くの住民が砲撃の中に放り出されてしまい近くの洞窟に逃げ込むことになりました。
シムクガマは字波平にある自然洞窟で波平区民約1000名の人々が避難壕として利用しました。このとき、中にいた避難民はハワイ帰りのおじいさん二人の説得で全員が米軍に保護されました。
チビリガマも字波平の小さな洞窟です。ここには140人ほどが逃げ込んでいました。避難住民はパニックとなり、83名が「集団自決」をしてしまいました。亡くなった約6割が18歳以下の子ども達でした。「集団自決」とは「国家のために命をささげよ」といった皇民化教育、軍国主義教育による強制された死のことで、私たちはこのような悲劇を二度とおこさないことを決意しなければなりません。
こちらのパネルで掩体壕(えんたいごう:飛行機の格納庫)が残っていることを知った。
となりにある地図で、近くにあることがわかったので行ってみることにした。
カーナビには出ないので迷いつつたどり着いた「忠魂碑」
読谷村体育センター敷地の北端にある。
説明板があった。平成21年に読谷村の史跡に指定されている。
読谷村指定文化財 史跡(沖縄戦に関する遺跡)
忠魂碑
忠魂碑は読谷山国民学校(読谷山尋常高等小学校)敷地内に1935年(昭和10)10月頃に建立されました。
その後、1978年(昭和53)に同敷地に読谷村運動広場が建設されるのに伴い、現在の場所に移されました。
忠魂碑は当時、天皇と国家のために死んだ軍人や軍属の忠義の魂を顕彰するためのもので、国民全員に同じ忠誠をたたき込むことに利用され、その結果、多くの若者が死地に追いやられたあげく、敗戦の憂き目に遭いました。
現在、碑文は何者かによって削られ、説明板も持ち去られており、わずかに揮毫者の陸軍大将鈴木壮六の名前が見えるだけです。
忠魂碑は日本の侵略戦争を美化する象徴として使われ、日本の歴史の負の遺産ですが、戦時中の風潮を今に伝える証人であり、今後の戒めとして村では2009年(平成21)1月に史跡に指定しました。
その場所から100mほど北東の草地の中を進む。
その先の五差路。
そのひとつが掩体壕に続いていた。
手前には「義烈空挺隊玉砕之地」の標柱がある。グーグルマップにはこの碑のサインが出ていた。
碑の前で黙々とビールを飲む中年男性がおられたので、おじゃましないように見学した。
正面から見たところ。
資料館前にあったものと同じパネルが置かれていた。
掩体壕の内側は鉄骨で補強されていた。
この掩体壕は沖縄北飛行場(読谷山飛行場)の格納庫のひとつとして建設された。飛行場は米軍上陸後は米軍の本土攻撃基地飛行場となり、戦後も米軍が読谷補助飛行場として使用を続け、全面返還されたのは平成18年になってからだった。
返還までの苦難の道のりは読谷村のサイトに詳しく記されている。
義烈空挺隊 - Wikipediaによれば、義烈空挺隊は、米軍接収後の読谷飛行場へ破壊活動を行った旧日本軍の空挺部隊。
その「義号作戦」は沖縄に上陸した米軍の航空基地を制圧して近海艦船に総攻撃を仕掛けるという作戦の一環だった。
12機の重爆撃機が投入され、熊本から沖縄に向けて出撃したものの4機が故障で引き返し7機は撃墜されたが、1機が読谷飛行場に胴体着陸し、飛行場にあった26機の航空機への破壊活動に成功した。つまり飛行場の機能に一定の打撃を与えることに成功したが、後続の攻撃ができずに機会を生かすことができなかったとのこと・・・
突入・破壊を行った乗員14名は全員死亡。米軍側も死者2名・負傷18名の被害となったが、義烈空挺隊は計99名の戦死者となった。
奥はコンクリートブロックで補強されている。米軍基地時代も物置か何かになっていたのだろうか。
内側の凸凹は経年変化か。
後ろ側へも回ってみた。
背後から見ると、コンクリート製の円墳のようだった。
近くにある読谷村陸上競技場の東側には滑走路跡と思われる広い直線路があった。
中央の縦のラインが滑走路跡と思われる。
こちらのブログにかつての航空写真があった。
つづく。
4年前に長野へ行った際、松代大本営(象山地下壕)を見学した。天皇陛下のための地下御殿も造られ、沖縄で”時間稼ぎ”をしている間に完成させようとしたとの説明があったことを思い出した。