前回のつづき。
太平洋に突き出た伊計島から、車で1時間強かけて東シナ海に面した読谷村にある座喜味(ざきみ)グスクへ行ってみた。
入場無料、駐車場も無料。
休館中の資料館の向かい側に案内図があった。周辺の森も含めて公園となっている。
石段とゆるやかな坂道を少し上ると琉球石灰岩の城壁が現われた。
座喜味城は15世紀前期に、中山軍の今帰仁城攻略に参加した按司・護佐丸が築いている。
首里城と緊密な連携を図るために首里城から望むことができる丘陵上に立地し、北山が滅びた後も残存勢力を監視する役目を担っていたそうだ。
詳細な内容の説明板があった。
国指定史跡 座喜味城跡
座喜味城は、15世紀の初頭築城家としても名高い護佐丸によって築かれたといわれる。護佐丸は当初、座喜味の北東約4kmにある山田グスクに居城していたが、1416年(1422年の説もあり)中山尚巴志(ちゅうざんしょうはし)の北山城攻略に参戦、北山攻略後は戦後処理のため一時北山城にとどまったといわれ、その間に座喜味の地へ築城を開始したという。城跡は座喜味部落北側の小高い丘、標高120m余の名護層からなる台地を石灰岩の切石積で取り囲んで築かれており、城は2つの郭からなる連郭式の形態になっている。城郭内の面積は約4,012.51㎡で、沖縄のグスクとしては中規模である。
この城には一の郭と二の郭にアーチの門がそれぞれ一つずつ造られているが、アーチ石のかみ合う部分、門の表と裏両面にクサビ石がはめられており、他のグスク等には類例が見られない。このことから座喜味城のアーチ石門が現存するアーチの沖縄で最古のものと見られている。
座喜味城跡は1972年の本土復帰に伴って国の史跡に指定され翌年の10月から沖縄県ではじめて史跡整備事業が文化庁と県の補助を受けて開始された。整備事業に伴う遺構発掘調査がなされ成果を上げた。出土遺物は、グスク系土器と須恵器が少量、中国製陶磁器や古銭などがあり、これらの出土品中最も多いのは中国製の青磁と陶器で、これらの中国陶磁からみると、15世紀から16世紀までのものがみられることから、座喜味城は護佐丸が1440年に中城城へ移った後も使用されたと考えられる。
遺構については一の郭の北側に間口16.58m奥行き14.94mの石組が発掘され、この中に建物が建っていたと思われる。しかし瓦等は出土しないことから屋根は板葺か茅葺の建物であったと推定され、また一の郭内の南側では城壁を作る以前の柱穴群も発見され、出土遺物からそれほどの時代差はないものの、一の郭内において2つの時期の遺構が確認された。
城跡は第二次大戦において、一の郭内に日本軍の高射砲陣地が築かれ、戦後も米軍のレーダー基地が建設されたが、整備の始まった翌年返還された。城壁の上に立つと首里・那覇をはじめ本島西側本部半島や東シナ海に浮かぶ慶良間諸島・久米島・伊江島・伊平屋諸島が眺望出来る要害の地にある。
文部省・沖縄県・読谷村
城壁の曲面やアーチのカーブが素晴らしい。
グーグルアースで。城壁の外側に立つと正面の曲面は凹んだ形になる。
最初にくぐる追手門のアーチ。
くぐって左手方向。
その奥に惹かれてさらに奥へ。
その先は行き止まりだった。
振り返ってもと来た方向へ。RPGゲームをやっているようだった。
内郭の石造拱門。
追手門とともに現存する沖縄最古のアーチ門の一つだそう。
門入口の脇の城壁に微妙な段差がついていた。
振り返ってみる二の郭。
さらに奥から城門のアーチを。
一の郭に残る礎石。城壁の上も歩けるようになっていた。
城壁の上から見た一の郭。
もちろん立入禁止のところもある。
こちらも立入禁止区域。
城壁の上から見た二の郭。
北東側の眺め。なかなかワイルド。別荘地(?)の手前に長浜ダムがある。
二の郭から見上げる城壁。
下の方は古い積み方か。
本州の城では尖る角がこちらでは丸みを帯びている。
斜度も一定なので登れてしまいそうだった(もちろん上から攻撃中は困難だが)
つづく。