墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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国史跡・本佐倉城跡(後編) 千葉県印旛郡酒々井町本佐倉

本佐倉(もとさくら)城跡見学のつづきです。 

案内所でいただいた全体図。赤い線が見学路(一部閉鎖中)

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東山馬場から入って、一旦北の虎口を見て、Ⅳ郭に戻って南の大堀切を通り、城山へ登ります。

 

城山の郭の直前で。標柱が立っていました。

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今はただの広場です。

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かつてこの「城山」には、千葉氏の屋敷群(庭や茶室も)があったそうです。

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(案内所でいただいた小冊子より)

 

ガイドの方に説明いただいた想像図。

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崖際からは案内所(東山馬場)が見下ろせました。

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再び堀を降りて上った先が「奥ノ山」エリア。

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千葉氏の時代には、中央奥(標柱のところ)に妙見宮(千葉氏の守護神)があったそうです。

鎌倉幕府の成立に貢献した千葉氏ですが(千葉常胤の時代)、この本佐倉城が築かれたのは室町期の応仁の乱の頃(文明年間:1469~1487)、九代ほど下った千葉輔胤(すけたね)・孝胤(のりたね)が本拠地を千葉から移してたのだそう。

この地で千葉氏は、秀吉の小田原城攻めで滅亡するまで九代続いたとのこと。

(千葉氏の歴史はとても複雑で理解が浅いことをご容赦ください。千葉県民なのに…)

 

ちなみにこの本佐倉城が戦場になることはなかったそうです。

 

こちらが倉跡エリア。緩やかな段々の斜面になっています。

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振り返った奥ノ山。

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倉跡の西端は切れ落ちていて、空堀の先に「セッテイ山」がありますが、このときは立入禁止になっていました。従来「接待郭」「人質郭」と推測されてきたそうですが、出土物から当主に近侍する「一族・有力家臣の屋敷」の可能性もあるそうです。

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倉跡から台地縁を北へ行った突端にあった諏訪神社。

今は樹木で眺望はないですが、山城になる前には古墳があったのではないかと思わせる場所でした。

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結局30分ほど”寄り道”をしましたが、非常に興味深いお話を伺えて有意義な体験ができました。案内いただいたボランティアガイドの方に感謝申し上げます!