墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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赤塚城跡 東京都板橋区赤塚

前回予約投稿を同時に2本、誤って上げてしまいましたが、前々回の赤塚氷川神社富士塚の続きを。

 

氷川神社から一旦坂を降りる。 

 

坂下の道から隣の丘を見上げて。

 

そのすぐ右手に城址公園の入口があった。

 

落ち葉の散策路を進む。

 

台地下とは15~20mほどの比高差がある。

 

上った先は、平坦な広場になっていた。 

 

石碑と解説板がポツンとある。

 

室町末期に、千葉氏が市川城から移ってきた場所だった。

武蔵千葉氏と赤塚城跡
下総国の守護千葉氏は、古河公方足利成氏と関東管領上杉家とが争った享徳の大乱に巻き込まれ、一族で骨肉相食む争いを繰り広げました。康正2年(1456)成氏方の軍勢に攻められた千葉実胤・自胤(これたね)兄弟は、上杉家の助けをうけ、市川城を逃れて赤塚城と石浜城(現台東区)へ入城しました。
寛正4年(1468)に兄の跡を継いだ自胤は、太田道灌に従って各地を転戦、現在の和光市や大宮市、足立区内に所領を獲得するなど、武蔵千葉氏の基盤を築きました。
その後、武蔵千葉氏は、南北朝以来の領主であった京都鹿王院の支配を排除するなど赤塚の支配の強化に努め、北条氏が武蔵国へ進出するとこれに従い、豊臣秀吉に滅ぼされる天正18年(1590)まで勢力をふるいました。
城は荒川低地に面し、東と西に大きく入り込んだ谷に挟まれた台地上にあります。その縄張りは、地形の観察等から都立公園の広場の部分が一の郭、梅林の部分が二の郭、そしてその西側が三の郭とする見解もありますが、正確なことはまだ明らかとなっていません。
平成13年3月 板橋区教育委員会

 

東京都遺跡地図によればここは「赤塚城址貝塚」とも呼ばれ、縄文時代の土器や石器、石棒、土偶が出土した貝塚であるだけでなく、弥生時代の土器、土師器、加工木材や古墳時代(?)の木道遺構が検出されているおり、数千年単位で、連綿と人の活動があった特別な場所だった。

東西を谷に挟まれ北に突き出す舌状台地であり、室町期に山城に改変される前は古墳もあったのでは、と強く感じられた。

 

広場の端から北側。木々の先の眼下に家並みが広がっていたが写すのは難しく。

 

広場から東側。

 

見事な梅林があった。これからの季節に再訪したい(この時は11月末)

 

花の見頃は2月下旬から3月上旬とのこと。 

城址の梅林
梅は春を告げる花です。
ここ城址の梅林は梅畑であったものを農家から譲りうけ、平成7年6月から公園地として皆さんに親しんでいただいております。
白加賀(シラカガ) バラ科 サクラ属
 花期は2月下旬~3月上旬

中国が原産の梅は花を見るだけでなく果実も採れる実利の植物でもあります。
毎年、公園管理所では梅の実を地元の養護学校の生徒さんたちに摘んでもらいその一部を近隣の福祉施設にもさしあげたいと考えています。
毎年、子供たちが楽しみにしていますので梅の実には手を触れないよう、皆様のご協力をお願いいたします。
梅一輪一輪ほどのあたたかさ 嵐雪
平成11年5月 都立赤塚公園管理所

 

公園のマップ。三段階の縮尺が示されていた。

 

麓の板橋区立美術館への近道を下る。

 

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