墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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回天格納壕、深江住吉神社・回天神社 大分県速見郡日出町大字大神

 前回記事の説明板にあった基地全容図。番号のついたオレンジの施設の遺構が、一部残存している。

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記念公園の駐車場に車を停めて一回りした。公園から道路を渡った先、回天神社が鎮座する独立丘の崖下に格納壕入口。

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全長15m弱の回天8基を一列に格納していたとある。

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中を覗き込むと、対面にも出入り口が。

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フラッシュで。トンネル状なのか、それ以上の空間があるのかはわからなかった。 

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反対側に見えた出入り口の方へ、道路に沿って回り込んでみた。左手に静かな港を見ながら。

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その出入り口側には民家があって、開口部の様子はわからなかった。後ろに鳥居が見えたので、さらに回り込む。

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枝道に入っていくと、民家の壁に解説が。

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表参道 裏参道
深江住吉神社
社地は、元深江城の跡である。大神氏が大神郷の地頭に封ぜられた後築造した。深江港は天然の良港で諸国津々浦々から商船の出入りがあったので、海上及び国土安全のため泉洲堺の住吉大社より勧請し(1300年代)城内、陽向石の上に鎮座したのが起源という。
その後、牧ノ内田ノ尾に遷座したが星霜を経て当社に崇敬の厚い日出藩三代俊長の命により再び現在の地に遷幸した。
回天神社
太平洋戦争末期、大神牧の内に一人の操縦する魚雷艇で敵艦一隻を撃沈する人間魚雷の特別攻撃隊の基地がつくられ、基地内に回天神社が軍により祀られた。戦後、地元の有志ならびに全国ゆかりの人々より深江住吉神社の境内に遷座された。

 

何気なく左の地図を見ると「安養寺経塚古墳」の印があったので(日出ICの左側)、この後に立ち寄った。

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表参道の石段へ。 

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”侵入者”に対して、カラス達が激しく鳴く中を、すべらないように登る。

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境内には、複数の社殿が建っていた。

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 こちらがもとからあった深江住吉神社。

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その隣に回天神社。

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そばには回天の3分の1サイズ模型が奉納されていた。

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エンジン部の実物も。

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スクリュー部分も。 

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境内の端からは、別府湾対岸の大分工業地帯までよく見渡せた。

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裏参道車道の急坂を下りていくと、ここにも開口部が。 

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隣にあった説明板は、回天と神社の概要説明。別の案内板にここは「酸素圧縮ポンプ室」とあった。

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内部をフラッシュで。 

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丘に沿って回っていくと、別の開口部も。

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「発煙筒深管壕」と手書きの説明。

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一回りしてからこちらの案内図に気づいた。

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ほかにも見学できる遺構はあったが、時間の関係で次の機会とした。