墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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天神塚古墳(大堺4号墳:金崎古墳群) 埼玉県秩父郡皆野町金崎

前回のつづき。

大堺4号墳は、1~3号墳から400mほど南西に立地する。 

 

途中で小さな流れを越えたが、大雨の時は危険になるようだ。

 

山際の道沿いには満開の桜も。

 

その下には、十二社大神へ上る参道もあった。 古道の雰囲気が漂う。

 

ほどなく金崎神社に到着。

 

千木が長く突き出た拝殿屋根。

 

御由緒には気になる記述があることを、書き起こしていて知った。

金崎神社 御由緒
国造 知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)・知知夫姫命(ちちぶひめのみこと)を祀る神社
当社は、現在十二天山の南東、字岩下の旧八坂社境内地に鎮座しているが、以前はここからやや西に寄った社中山の中腹に鎮座していた。社中山は宝登山の裏手に当たり、そこからは国神方面が一望できる。
社記によれば、当社は本郡の旧跡である国造知知夫彦命・知知夫姫命の古塚近くの山にあり、古墳の祭神二柱を祀っているところからこの塚とは縁があるという。また「新編武蔵風土記稿」には、「野栗社 諏訪社 貴船社 以上三社合殿、村の中程、総鎮守、無年貢地、例祭七月二七日、神主宮前主計」とあり、当社は初め、野栗三社権現と称し、三社合殿で祀られていたが、大正期には既に氏子の間では、野栗社と貴船社の事は忘れられ「お諏訪様」とのみ呼ばれていた。
明治40年(1907)に字馬場の八幡社、字岩下の八坂社・天満天神社、字瀬戸山の十二社大神社・稲荷社、字腰の大山祇社を合祀し、同43年(1910)に村社となった。
社名はこと時、村名をとって金崎神社とした。更に昭和53年(1978)には現社地に遷座して、今日に至っている(後略)

 

御祭神の知知夫彦命・知知夫姫命は旧社地の近くの”古墳の祭神”だとある。

検索すると皆野町観光協会のサイトの「国神の大銀杏」の項に行き当たり、かつてその銀杏の周囲にあった数基の古墳のうちに知々夫彦命・知々夫姫命の墳墓があり、銀杏は知々夫彦命の墓のほとりに植えられたという言い伝えがあるそうだ。

http://www.minano.gr.jp/flowerinfo/%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%A4%A7%E9%8A%80%E6%9D%8F/ 

 

拝殿に参拝して振り返ったところ。この先200mほどを荒川が流れる。

 

拝殿に向かって左手に墳丘があった。

 

裾には標柱も。

 

墳頂には従軍記念碑が。

 

墳頂から北、山側の眺め。

 

回り込んでいくと南西側に開口部があった。

 

胸くらいの高さ。

天神塚古墳(大堺4号墳)は、3号墳にあった説明板によれば6世紀後半の築造。

 

板のような天井石。 

 

しゃがんで中へ入らせていただいた。こちらも見事な室内。2・3号墳のような板状ではなくブロック状の石材が平滑面を内に向けて積まれている。

 

奥壁前から。

 

フラッシュで。 

 

”天井らしさ”が溢れる天井石。

 

南西側からの遠望。