独特な外形の「鬼の窟(いわや) 古墳」は、南北に長い史跡内のほぼ中央にあった。ガイダンスセンター「このはな館」駐車場の目の前。
道路沿いには西都原古墳群全体の案内板。
マップの黄色い丸印は、ほぼ全て古墳。あまりの数に、たじろぐ。
解説と、わかりやすい年表も。鬼の窟古墳は、300基以上を擁する西都原古墳群の中で、最後に築かれた墳丘だった。
特別史跡 西都原古墳群のご案内(昭和27年3月29日指定)
特別史跡西都原古墳群は、東西2.6㎞、南北4.2㎞の広範囲に広がる全国最大規模の古墳群です。前方後円墳31基・円墳279基・方墳1基で南九州独自の地下式横穴墓も混在しています。
古墳時代の初頭(3世紀末~4世紀初め)、複数のグループの首長(豪族)が台地縁辺を中心に築造を開始します。
5世紀前半には、それらを統一するように男狭穂塚(列島最大の帆立貝形古墳)、女狭穂塚(九州島最大の前方後円墳)が築かれます。
6世紀末、巨石を用いた横穴式石室を持つ鬼の窟古墳を最後に、西都原における首長墓の築造は終了します。
古墳群では、大正元年~6年(1912~1917)に、30基が発掘調査されました。また、昭和41年(1966)からは「風土記の丘」として整備が行われ、国、県、市、地元住民の協力により、豊かな自然景観と優れた歴史的景観が守り継がれてきました。
平成7年度からは、古墳群の保存と活用を目的に調査と整備が実施されています。
墳丘に至るには、まず高い外堤を越える。
階段脇にあった解説。
鬼の窟古墳 6世紀後半~7世紀前半
鬼の窟古墳(206号墳)は、外堤と二重の周溝を有する直径37m、高さ7.3mの円墳で、二段築成の墳丘には葺石はありません。
古墳群で唯一の開口した横穴式石室を持ち、巨石を積み上げた石室や羨道からは、木棺に使用されたと考えられる鉄釘や馬具、須恵器、土師器などが出土し、3回以上の埋葬が行われたと考えられます。
鬼の窟古墳は、西都原古墳群の最後の首長墓と考えられます。古墳の名前は木花開邪姫(コノハナサクヤヒメ)に恋した鬼が、一晩のうちに窟(石室)を作ったという伝説に由来しています。
堤に上がると、開口部が出現。
周囲360度を、高い堤で囲まれる。
内壕に降りて。子どもなら、かけっこしたくなりそう。
石室への扉は開いていた。
入っていくと、玄室が明るく照らされた。
立った位置で奥壁を。
しゃがんだ位置から天井も。
空間の広さも、石の大きさも大迫力。
奥壁から振り返って。
開口部に向かって左の側壁。
逆サイド。
石室前にあった解説板。石室も墳丘も、丁寧に復元されていた。
石室の復元
鬼の窟古墳の横穴式石室は、羨道と玄室に分かれています。巨石を用いて4~5段に積み上げた壁面を緩やかに内側に傾け、天井石で覆っています。
石室の入り口には、以前はクスノキが生えていましたが、木の成長によって拡がった根により、石室が裏側から圧迫され崩壊の危険が高まっていました。
そのため、石室の崩壊を防ぎ、古墳と石室を本来の形状に復元することを目的とした整備工事を実施しました。
石室の石をクレーンを使って一つずつ吊り上げながら解体し、クスノキの根を除去しました。その後、図面や写真を基に石を積み直し、石室と墳丘を築造当時の姿に復元しました。
石室の床面は、保護のために20cm程度の盛り土を施し、実物と同じような形状の河原石を敷いて復元しました。
もうひとつ解説板。
南九州最大級の横穴式石室
巨石を用いた畿内型の横穴式石室であり、石室の全長12.4m、玄室は奥幅1.75m、前幅2.45m、長さ4.90m、高さ2.15mです。
主要な石材は砂岩の塊石で、玄室奥壁最下段に使用された石材は露出している部分だけでも幅2.1m、高さ1.0mという大きさです。
一ツ瀬川を挟んで対岸に位置する千畑古墳(前方後円墳)の横穴式石室と比較検討が行われており、両者は設計企画や築造技法など多くの点で類似することが指摘されています。
外へ出て開口部を横から。
内壕を回って行くと、車いす用の出入り口もあった。
架道橋のような雰囲気。
外側にあった解説板。下記の「断ち割った」部分がトンネルとなったのだろう。
外堤の築造方法
鬼の窟古墳は、二重の周堀(内壕・外壕)のあいだに土塁状の高い外堤を巡らせています。外堤は長い年月を経て築造当時の姿を失っていましたが、発掘調査の成果に基づき、幅10~11m、高さ5.2m、断面台形の整った形に復元されました。発掘調査時には外堤の一部を断ち割って土層が観察されており、鬼界アカホヤ火山灰のブロックが多量に混じる層と黒色土層とが交互に積み上げられていることが分かりました。
なんと築造当初から排水施設が設けられていた。そうしないと池になってしまいますね。
外堤に設けられた排水施設
平成7年(1995)に実施した発掘調査では、外堤の下に排水施設が発見されました。両壁に河原石を3~4段積み上げて蓋石をかぶせた暗渠状の構造をしており、内壕と外壕を繋いでいます。内壕側から外壕側に向かって緩やかに傾斜していることから、内壕にたまった雨水を外壕へ流すために構築されたと考えられます。この排水施設は古墳の整備工事に伴って埋め戻され、構築当時の状態で保存されています。
堤の上から。奥の小山が男狭穂塚と女狭穂塚。
堤の上も一周した。中央奥は83号墳(前方後円墳)
北側からみた鬼の窟古墳(206号墳)
手前は菜の花畑なので、何日か後には黄色の絨毯になっていたはず。