墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

西都原古墳群(その2)171 号墳 宮崎県西都市大字三宅

前回の女狭穂塚古墳の西側に、寄り添うような墳丘があった(左奥)

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雨で濡れた草を、よけながら歩こうとしたが、かなり靴が濡れてしまった。

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 きれいな形の墳丘は復元だが、171号墳は西都原古墳群で唯一の方墳だった。

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その説明板。 

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171号墳 再発掘調査 平成10~12年度実施
171号墳は、女狭穂塚の南西に位置し、その陪塚として5世紀前半に造られました。近年の調査の結果、女狭穂塚には二重周溝が存在し、171号墳はそれに接して造られたことが明らかになりました。
171号墳は西都原古墳群唯一の方墳であり、一辺約25m、高さ約4.5mで、二段構成となっています。
墳頂平坦面は円筒埴輪列が取り囲み、その内側に家形埴輪や盾形埴輪が立てられていました。また、一段目と二段目の段差をめぐるテラスにも、円筒埴輪が列をなして立てられていました。しかし古墳内部に、人を葬った跡は見られませんでした。
今回の整備にあたり、周辺地形の削平されていた部分を含め、古墳本体も復元して築造当時の姿に近づけました。
※陪塚(ばいちょう):大型古墳に近接して存在すり小古墳で、その性格が大型古墳に従属するものをいう。

墳丘の表面は川原石で覆われています。これらの石は、墳丘に対して川原石の長軸を横たえる形で、平行に重ねられています。
また、約1mごとに、長軸が30~40cmの石が垂直方向に一直線に重ねられています。これは、石を葺くときの一人分の作業区画を示したものだと言われています。
宮崎県教育委員会

 

築造当時の想像図の部分。171号墳が女狭穂塚古墳の外側の周溝に沿うように描かれている。

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西都原古墳群ではかなりの古墳に、発掘に関わった人をピックアップした解説板も設置されていた。

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171号墳 第一次調査 大正元年(1912)12月27日~大正2年1月3日
発掘に関わった人
濱田耕作はまだこうさく)
明治14年(1881)~昭和13年(1938)
京都帝国大学講師・助教授(調査当時31歳)
第一・六次調査参加(大正元年・6年)
●日本最初に開設された考古学講座の担当

柴田常恵(しばたじょうけい)
明治10年(1877)~昭和32年(1957)
東京帝国大学助手(調査当時35歳)
第一・四次調査参加(大正元年・4年)
●黎明期の文化財保護行政にあたる

 

発掘者の説明板は道路際に。

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菜の花満開の一画があった。

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公式サイトの解説写真には葺石と埴輪をまとう姿が見られる。

http://mppf.or.jp/wpsys/wp-content/themes/mppf/docs/saito/marukajiriMapP01.pdf