国指定史跡・生目(いきめ)古墳群は、前回の本庄古墳群から南東7㎞ほど、大淀川が本庄川を合流した先の右岸台地上に立地する。現在は河口まで9㎞ほどの地点。
ここも珍しい地名だと思い検索すると、Wikipediaの生目神社(古墳群の3km南)の項に下記の3つの由来説が紹介されていた。
1、源平合戦後に源頼朝に捕らわれた藤原景清が、源家の栄達を目にすることを厭うとともに源家への復讐を断念するために自身の両眼を抉ったところ、その志を賞した頼朝から日向勾当という勾当職と日向国の地300町を与えられたといい、当地へ下向した景清の没後にその(抉った)両眼を祀った。
2、古くからの眼病治癒の霊地であったために「生目(活目)八幡宮」と称した。
3、景行天皇の熊襲征伐の途次、先帝である活目入彦五十狭茅尊(垂仁天皇)の崩御日にその霊を祀る祭祀(先帝祭)を当地において営んだため、住民がこれを嘉して引き続き聖地として崇め、「活目八幡宮」と称えた。
古墳群は標高30mほどの台地上だが、丘の裾には埋蔵文化財センターと体験学習館を兼ねた、生目の社遊古館(いきめのもりゆうこかん) がある。
このときは、残念ながら閉館中。
https://www.city.miyazaki.miyazaki.jp/culture/facilities/12436.html
玄関前には日本遺産の説明板。 上部が大きく開いた朝顔形(?)円筒埴輪の写真も。
日本遺産「古代人のモニュメント」
台地に絵を描く南国宮崎の古墳景観
日本独自の形である前方後円墳という古墳が造られた時代。宮崎平野でも西都原古墳群を始め多くの古墳が造られました
。列島各地であまた造られた古墳のある景観(風景)は、時の移ろいの中で様変わりしましたが、宮崎平野に繁栄した当時に近い景観が今も保たれています。古墳の姿形が損なわれることなく、古墳の周りには建築物がほとんどない景観は全国で唯一です。古墳を横から、上から、斜めから。いろんな形と古墳のある景観を楽しんでみませんか?
案内図を見て、今回も前方後円墳の密度に驚く。
施設の前から坂道を上がって中腹の駐車場に停めた。南側には大淀川右岸の平野が広がる。
西方向。目の前のカーブは何かといえば…
前方後円墳の後円部でした。
生目古墳群21号墳。きれいに整備されているので、最初は移築復元かと思いました。
前方部から後円部方向。
後円部から前方部方向。右端に22号墳の裾が写っている。
21号墳の後ろのロータリー前に 「豪族の眠る丘、生目古墳群へようこそ」と題された立体説明板があった。下記は、そこに書かれていた21号墳の説明文。
前方後円墳と判明した21号墳
昔から円墳と考えられていた古墳ですが、発掘調査の結果、古墳群でも8基目の前方後円墳と解りました。古墳の周囲からは、数多くの地下式横穴墓が見つかっています。
左下の説明は全体概要。
今から1400~1700年前の古墳時代、宮崎平野を一望できるこの丘には、地域一帯を治めていた豪族の墓所がありました。この墓所はのちに「生目(いきめ)古墳群」と名付けられ、昭和18年に国指定史跡となりました。古墳群には51基の古墳があり、公園内には前方後円墳8基、円墳25基が含まれます。このうち、1号墳、3号墳、22号墳はいずれも4世紀の古墳時代前期に造られた、長さが100mを超す大型の前方後円墳です。
この他、前方後円墳や円墳などの「高塚墳」とは違う、南九州地方独特のお墓の造り方である「地下式横穴墓」も、数多く発見されています。一方、前方後円墳は、ヤマト政権から伝わったお墓の造り方で、生目古墳群ではその前方後円墳の周囲に地下式横穴墓を造ることが多く、それぞれの埋葬者が密接な関係を持っていたようです。
西都原との比較説明もあった。左下の図は上段が生目古墳群、下段が西都原古墳群で、西暦400年前後に女狭穂塚古墳が築かれる前の4世紀では、生目古墳群の方が規模が大きかった(当時の九州地域で最大)
生目古墳群と西都原古墳群
前方後円墳は、今の近畿地方を中心に、当時の日本列島で、最も力をもっていたヤマト政権によって造り出されたお墓で、地方にある前方後円墳はそのヤマト政権の勢力下にあった証拠だと考えられています。
また、前方後円墳は埋葬者が生きていた頃の権力の大きさを表したシンボルだといわれています。
西都市の西都原古墳群にある女狭穂塚古墳(176m)と男狭穂塚古墳(176m)は九州で1位、2位の大きさがあります。生目の前方後円墳の大きさはこれらの規模にはかないません。しかし左の図のように古墳が造られた時代も合わせてみると、生目の1号墳、3号墳、22号墳が造られた頃の西都原には大きな古墳が造られていないことが解ります。このことは、ほかの九州にある古墳群も同様で、4世紀にこれほど大規模な古墳がみられるのは生目古墳群だけです。生目の1・3・22号墳に眠る埋葬者は、九州一帯に名を馳せるほどの権力者だったのかもしれません。その生目古墳群も、西都原古墳群に圧倒的な大きさの女狭穂塚古墳が造られた頃、前方後円墳が小さくなり、生目の豪族の権力は衰退したと推測されます。
22号墳は敷地の南端にある。
テラスのある大きな後円部。左奥に前方部が続く。
後円部墳頂に上がらせていただいた。
振り返ると21号墳。ロータリーの先には14号墳。
後円部から前方部方向を。
前方部へ降りて、後円部を振り返る。 さきほどの立体地図によれば全長は101m。それでも当古墳群では3番目の大きさ。
前方部右裾の斜面から、後円部方向を。
そのすぐ北側に、後円部をこちらに向けた23号墳。
後円部墳頂の様子。
振り返っての22号墳の方向。
後円部から前方部方向。
前方部から後円部を。
前方部の左裾側を。
前方部左裾に降りて、そこから左奥に後円部を見る。
ロータリーの先は広々とした芝生で、家族連れで賑わっていた。
上記の位置から振り返ると14号墳。
詳しい説明板があった。14号墳は墳頂63mで、22号墳の次に造られたと考えられている。
全面を石で覆われた14号墳。
14号墳は今から約1600年前、古墳時代前期の終わり頃に造られた墳長63mの前方後円墳です。墳丘は後円部、前方部ともに2段に造られており、斜面だけでなくテラス(墳丘斜面途中の平坦面)や墳頂(古墳の頂上)平坦面も石で覆われていました。通常、古墳の周囲には、周溝と呼ばれる溝が巡っていますが、14号墳の前方部の前面には周溝がなかったことが明らかになっています。14号墳は、22号墳の次の首長墓と考えられますが、その規模は3分の2程度にまで縮小しており、この地方の豪族の勢力が衰退したことを表しています。古墳前面を覆う葺石・敷石
14号墳は全面的な発掘調査を行っていませんが
、部分的な調査で、古墳の表面を石で覆った状況が明らかになっています。古墳の斜面部分の石を葺石、平坦面の石を敷石と呼びますが、14号墳では石の積み方、並べ方が非常に丁寧だったことから、両方とも良好な状態で残されていました。古墳表面全体を石で覆った14号墳は、造られた当時「石の山」のように見えたことでしょう。壺形埴輪
後円部と前方部、それぞれの平坦面に壺形埴輪が並べられていました。その形は独特で、壺を上に引き伸ばしたような形をしています。5号墳の埴輪と比べると、壺の形に近いことから14号墳の方が古く位置付けられています。地下式横穴墓
生目古墳群では、古墳の周溝からたくさんの地下式横穴墓が発見されています。14号墳でも前方部側の周溝内から地下式横穴墓が見つかりました。遺体を納める玄室の内部は調査していませんが、周溝の外側へ向けて造られていることが明らかになっています。
宮崎市教育委員会 平成26年3月
前出の立体地図にもコメントあり。
いい仕事を今に伝える14号墳
14号墳もほかの前方後円墳と同様に、墳丘の表面に葺石が葺かれていました。発掘調査では当時の姿をそのまま残す葺石が発見され、墳丘上に並べられた埴輪も出土しました。古墳を造った当時の工人たちの仕事の丁寧さを垣間見ることができます。
今は平べったい墳丘を右裾から。
前方部に上がらせていただいて後円部方向を見る。葺石に覆われた姿を想像しながら。
後円部墳頂にはミニチュア円墳群のような土盛り。モグラ?ミミズ?
後円部先端方向。木々の先は崖で下は溜池になっている。
そこから振り返った前方部。中央奥に22号墳の後円部斜面。
それをズームで。
14号墳を、横からパノラマで。
そばには小さな15号墳。
そこから台地上を北側へ移動した。