墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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名取大塚古墳(賽ノ窪古墳群) 宮城県名取市愛島笠島

名取大塚古墳は、愛島丘陵の根元側で30基ほどを擁する賽ノ窪古墳群の盟主墳。

丘陵東端に飯野坂古墳群から2.5㎞西にあります。

 

1号墳の名取大塚古墳へは県道39号のここから東に入ります。

 

入ってすぐに説明板。

市指定 名取大塚山古墳
名取大塚山古墳は、全長90m、後円部径60m・高さ8.5m、前方部の長さ30m・高さ2.3mの前方後円墳で、県内で4番目に大きな古墳となっています。後円部は三段築成で、埴輪や葺石を伴い、前方部は後円部に比べて極端に低くなっています。このような形の前方後円墳は、帆立貝式、又は柄鏡式古墳と呼ばれています。
古墳の年代については、発掘調査が行われていないため明らかではありませんが、古墳の形や発見された埴輪などから推定すると、5世紀中頃(古墳時代中期)に造られたと考えられています。


賽ノ窪古墳群
賽ノ窪古墳群は、高舘丘陵から分岐し東へ張り出す標高30~50mの愛島丘陵上に30基程が分布しています。
古墳群は既に煙滅(6基)したり未発掘の古墳が多く、詳細は明らかではありませんが、大まかに第1号墳の名取大塚山古墳(全長90mの前方後円墳)を中核とした埴輪等が伴う円墳群と、第17号墳の十石上古墳(全長32mの前方後円墳)を中核とした箱式石棺等が検出されている小円墳群に分かれると考えられています。
古墳群の時期については、古墳の特徴から前者は古墳時代中期(5世紀頃)、後者は古墳時代後期(6世紀頃)を中心とした時期と推定されていますが、そのあり方や関連性についてはまだわかっていません。
平成22年3月31日 名取市教育委員会

 

そのまま農道をおそるおそる200mほど進むと墳丘の前に。1,2 台なら停められました。

 

大きな後円部、右奥へ小さな前方部があるのですが、現地では左奥だと勘違いしてしまいました。

 

全長が90mもある前方後円墳。高さも8.5m。

 

周囲は農地。

 

後円部の北側斜面。

 

広い墳頂。

 

墳頂から東側斜面を見下ろして。この右(南東側)が前方部だったのですが撮っておらず…

 

後円部北東側の竹藪。

 

こちら側に前方部があると思い込んでいましたが、もちろん全くその気配は無く。

 

こちらは県道沿いにある12号墳(御上古墳)

 

道路の反対側から。


14号墳(志平塚古墳)

 

13号墳のピンが立つあたりの樹林。

 

17号墳(十石上古墳)も県道沿いでした。標柱発見。

 

近くの佐倍乃(さえの)神社に参拝。

 

ご由緒には日本武尊の勧請とあるそうで、江戸時代には道祖神社と呼ばれていたものが明治期に古称の「佐倍乃(さえの)神社」へ改称したとのこと。

光源氏のモデルとされる中将藤原朝臣実方は、この神社の前を馬から降りずに通り過ぎたので、落馬し亡くなったといわれているそうです。

佐倍乃神社(道祖神社) |

 

参拝してよかったです。

 

境内林のなかに気になる土盛りが。

 

のちほど訪ねた名取市歴史民俗資料館での、賽ノ窪古墳群の解説パネル。

大きな古墳から小さな古墳へ
賽ノ窪古墳群
古墳時代も半ばを過ぎると、次第に大きな古墳は造られなくなりました。愛島丘陵にある賽ノ窪古墳群は30基もの中・小規模の円墳が群集する5世紀中頃~6世紀の古墳群です(27号墳を除く)
その中の名取大塚山古墳は5世紀中頃の前方後円墳で、全長90mの宮城県で4番目の大きさです。また、前方部がかなり小さいことから、帆立貝式古墳とも呼ばれます。墳丘には円筒埴輪がめぐらされ、表面に葺石もふかれていました。
6世紀には小型化した前方後円墳の十石上古墳(じゅっこくかみこふん:全長32m)のほか、小規模の円墳が中心となり、大型古墳消滅の過程がみてとれます。

 

神社で見た土盛りにも、(賽ノ窪)20号墳の印が打たれていました。