前回までは小丸川の北側を下流から上流に遡るように古墳を巡ったが、今回からは南に8㎞下り、一ツ瀬川を挟んで西都原の対岸(東側)に展開する祇園原(ぎおんばる)古墳群を訪ねる。
最初に、群中で一番北にあった92号墳・大久保塚へ。
県道からも姿が見えるが、西への枝道に入ると、全長84mの前方後円墳の側面が目に飛び込んできた。
左が前方部、右が後円部。
前方部右裾から。右奥が後円部。
前方部の稜線から上らせていただいた。
前方部上から後円部方向。
西都原と同じような字体の標柱があった。古墳第92号。
前方部上から左側の側面。 くびれ部に造り出しがあるのがわかる。
後円部に上がって、前方部方向を。
前方部が先端に向かって開く形状で、築造時期は5世紀前半とされている。
さきほどの反対側側面にも造り出しの膨らみがあった。
大久保塚見学後、400mほど南の古墳集中エリアに移ると、駐車場やトイレも整備された見学者用施設があった。
そこにあった説明板。ここ祇園原古墳群は、少し離れた3つの古墳群と合わせて新田原(にゅうたばる)古墳群と呼ばれている。西都原の311基に対して新田原207基(その内の祇園原には154基)を擁し、西都原の隆盛期(4世紀~5世紀前半)に続くように新田原の隆盛期(4世紀末~6世紀)が来る。
大久保塚は祇園原では初期に築かれるが、同じ5世紀前半には西都原(一ツ瀬川右岸)の男狭穂塚・女狭穂塚や、同じく一ツ瀬川の左岸で3㎞北に立地する児屋根塚も築かれている。
新田原(にゅうたばる)古墳群
一ツ瀬川と小丸川流域の古墳群
宮崎県の一ツ瀬川と小丸川流域には、今から1400年から1600年前の造られた首長達の墓が多数残されています。
両河川の流域は、宮崎県でも最も古墳群が集中的に分布しており、その数は800基以上を数えます。
特に一ツ瀬川流域の西都原古墳群には311基が、新田原古墳群には207基の古墳があり、全国的にも著名な群集墳となっています。古墳の造られた時代
日本列島の各地域の首長達の多くは「前方後円墳」と呼ばれる特徴的な形の古墳に埋葬され、その大きさなどで権力の強さを誇ったおのと考えられます。この時代を「古墳時代」と呼んでおり、まさに日本が中央集権国家に移り変わろうとする時期で、およそ300年続きました。
一ツ瀬川流域の古墳が造られた時期を、発見された出土品などにより推測3すると、右のような図ができます。
これによると、前半には西都原古墳群に有力な首長の墓が多数あり、後年になると新田原古墳群にたくさんの古墳が造られるようになったと考えられます。
首長の権力が移り変わったのか、古墳を造る場所が変わったのか、興味深い古墳の分布を示しています。新田原と祇園原
「新田原古墳群」とは昭和19年に旧新田村にあった古墳をすべて国の指定史跡とした時の名称で、実際は東から「塚原」「石船」「山之坊」「祇園原」という、4つの古墳群に分けることができます。
このうち祇園原古墳群には154基の古墳があり、古墳時代中期から後期にかけての首長たちの墓が残されています。
特に古墳時代後期には宮崎県内でも最大の首長の墓が連続して造られており、その代表が59号墳、百足塚古墳、弥吾郎塚古墳です。
平成26年11月 新富町
祇園原古墳群のマップ。こんなに数が多かったとは。
一ツ瀬川、小丸川の流域の古墳群マップ。 西都原以外にもこれだけ大規模な古墳群があったとはそして残っているとは、驚きであり感動でした。
祇園原古墳群に特化した案内板もあった。
祇園原古墳群の案内
新田原古墳群は新富町大字新田(にゅうた)から西都市右松にある国指定史跡です。その分布は一ツ瀬川左岸台地上で、4つの地区に集中しているため、それぞれ塚原(つかばる)古墳群、石船(いわふね)古墳群、山之坊古墳群、祇園原古墳群と呼んでいます。
祇園原古墳群には前方後円墳14基、方墳1基、円墳139基の合計154基の古墳があり、古墳の多くは6世紀(古墳時代後期)に造られています。
発掘調査はあまり行われていませんが、平成9年度から始まった百足塚古墳の調査では周溝(古墳まわりの堀)に転落していた埴輪類が多数発見され、宮崎県でもめずらしい人物、鳥形、家形、柵形などの埴輪が復元されています。
平成4年度にはBグループで円墳の周溝から地下式横穴墓や馬の埋葬穴が発見されています。
52号墳から発見された大刀の単龍環状柄頭は当時の中央政権から配布された威信具(権力を表したもの)でしょう。
祇園原古墳群の前方後円墳の多くは6世紀のおいて日向地方最大であり、当時の首長達の墓であろうと考えられています。
平成15年3月31日 新富町教育委員会