国の特別史跡に指定されている西都原(さいとばる)古墳群は想像していた以上に大規模な古墳群だった。
一ツ瀬川を海から10km強遡った中流右岸、西都市街地西側の比高差40mほどの舌状台地上に立地する。
宮崎市街からは20kmほど北にあり、宮崎空港から直接車で向かうと45分程度。
台地周囲は樹々に囲まれていて、南北4.2㎞・東西2.6㎞の62ha(さきたま古墳公園の1.6倍、TDLの1.2倍)の広大なエリアに、320基近くの古墳が確認されている。
下記の西都市のサイトによれば、陵墓参考地の男狭穂塚・女狭穂塚のほかに前方後円墳31基、方墳1基、円墳287基。
それらの古墳は、分布する台地面やそれらを開析する大小の谷地形、築造年代などによって10から13の単位に区分されるが、それは古墳の築造集団の単位ととらえることもでき、同時期的に複数の集団が存在したものと理解できるそうだ。
http://www.city.saito.lg.jp/post_270.html
前回の清水古墳群から舌状台地の間の道を北へ向かう。西都原古墳群は右手の台地上。
最初に着いた駐車場。広い敷地は基本的に出入り自由で駐車場も無料。
停めた先には地下式横穴墓・坂元ノ横穴墓群(7世紀初め)の見学施設があった。覆い屋の中で発掘時の様子を目にすることができるとのことだが、残念ながら改修中でクローズ。
こんなに広いと想定していなかったので、まずはガイダンスセンター「このはな館」へ向かった。
ゆるきゃらは、ニニギくん(左)と、コノハナちゃん(右)
https://www.yurugp.jp/jp/vote/detail.php?id=00001380
屋内は広く、みやげ物店や休憩施設があるが、出土品(須恵器)が展示される一画もあった。
その説明板。
西都原出土の須恵器
須恵器は、5世紀初頭に朝鮮半島から製作技法が伝わり国産化した窯で焼成する土器です。土師器などよりも高い温度で焼かれ、硬く焼きしまった器になります。焼成後に窯の焚口をふさいで煙でいぶすことによって、還元反応を起こし、灰色の色調をもつ器になります。多孔質の土師器が煮炊き用の鍋や釜であったことを考えると、硬く焼きしまている須恵器は杯や水甕などの用途で使用されました。また、葬儀用に製作されて副葬品として墓に納められるものもあり、葬送習俗を伝える貴重な資料となります。
この須恵器は7世紀中ごろのもので、特に蓋と身のセットは、銅碗などの金属器を模倣した製品です。とても優品で、熟練した工人による製作でしょう。
高坏の形状から、瀬戸内地域から搬入されたものと考えられ、当時の末期の流通の様子も伝えています。
他に詳しい資料は無かったので西都原考古博物館で情報を仕入れようと向かっていくと、なんと臨時休館。確かにこの時点(3月7日)で宮崎県にも感染者が1名出ていましたが、考古資料館に人が集まる場所というイメージを持っていなかったので茫然としてしまいました。
再訪せよとのことでしょう。
気持ちを切り替えて、 男狭穂塚・女狭穂塚(おさほづか・めさほづか)古墳へ。
この時点で雨が本降りに。
女挟穂塚古墳の前方部正面に拝所と広場が設けられている。
屋根のある拝所から女狭穂塚古墳の前方部を望む。
出入り自由な西都原古墳群だが、男狭穂塚・女狭穂塚の敷地は宮内庁が管理する陵墓参考地なので立入禁止。
近くにあった説明板。 ニニギノミコト(男狭穂塚)・コノハナサクヤヒメ(女狭穂塚)「とも」言い伝えられている。女狭穂塚は九州で最大(176.3m)の前方後円墳。
男狭穂塚(おさほづか)
男狭穂塚は、古来天孫ニニギノミコトの御陵ともいい伝えられ全長154.6m、後円部の径132.90m・高さ19.1mの巨大古墳であり、周囲に二重の隍(ほり)もめぐらされています。築造年代は女狭穂塚よりも早い時期と推定され、明治28年、男狭穂・女狭穂両塚を含む98,700㎡のこの地域は御陵墓参考地に定められ宮内庁の管轄下にあります。女狭穂塚(めさほづか)
女狭穂塚は、ニニギノミコトの妃・コノハナサクヤヒメの御陵ともいい伝えられ、全長176.3m、後円部の径96.1m・高さ14.6m、前方部の幅109.5m・高さ12.8mの規模を有する九州では最大の前方後円墳です。この両古墳は西都原時代の最盛期に造られたもので、築造された年代は5世紀中頃の時期と推定されています。
下記の公式サイトによれば推定築造時期は4世紀末から5世紀初頭頃。
女挟穂塚は九州では珍しい、くびれ部に造出を持つ畿内式前方後円墳、また男挟穂塚は全国最大の帆立貝形前方後円墳であることも記載されている。
宮内庁により御陵墓参考地に指定されたのは明治28年。
http://mppf.or.jp/saito/bnurial_mounds/
上記サイトに添付されるpdfには、 男狭稲塚は諸方君牛諸井の墓とも、そして女狭稲塚は仁徳天皇妃の髪長媛(かみながひめ)の墓とも考えられているとあった。
http://mppf.or.jp/wpsys/wp-content/themes/mppf/docs/saito/marukajiriMapP18.pdf
立体模型部分を。
これを見ると、先に造られた男狭稲塚の前方部を削って女狭穂塚が築かれているように見える。後円部径132mの男狭穂塚が、もしも帆立貝形古墳でなく前方後円墳であったなら全長210m超で全国30位内に入るのでは、などと想像するのも楽しいです。
拝所から振り返ると、蕾が膨らんだ桜並木。
まさにちょうど今、満開を迎えているそうです。
https://www.umk.co.jp/news/?date=20200401&id=03058
https://www.saito-kanko.jp/news/2020/04/03/14009.html
柵で囲まれた敷地の東側に、宮内庁の高札がありました。
男狭穂塚古墳へ向かう道は禁足地。奥に周堤が見えている?
宮崎市観光協会のサイトにも詳しい解説があった。
男狭穂塚の墳丘は三段築成で、周囲に幅約20mの2重の周濠(内側は深く外側が浅い)を持ち、築造方法などから5世紀前半中頃の築造と推定されるそう。
女狭穂塚も三段築成で周濠を持つが、こちらは葺石を伴い、くびれ部には造出を持つ。こちらも築造方法などから5世紀前半中頃の築造と推定されるそうだ。
どちらも宮内庁陵墓参考地なので特別史跡「西都原古墳群」の指定範囲外。
http://kikihensan.miyazaki-city.tourism.or.jp/yukari_10.html
敷地の南東側に、一本だけ開花していた個体。
敷地の西側の様子。
柵の向こうには、女狭穂塚の前方部先端部。
樹林の隙間からチラリと見える墳丘。
鞍部のあたりか?
男狭穂塚の「狭」の字は、サイトによって「挟」や「稲」も使われていた。
公式サイトには男狭穂塚・女狭穂塚を中心にした第1~3の古墳群、鬼の窟古墳等の位置関係が記されている。
http://mppf.or.jp/wpsys/wp-content/themes/mppf/docs/saito/parkMap.pdf
さらに詳細で周囲の見所も含んだ「西都まるかじりマップ」も見られる。