前回のつづき。
天空橋から多摩川に出て赤レンガ堤防の残る道を歩き、高速横羽線の橋の下へ出た。
橋をくぐるとその先にもレンガ壁が続いていたが、川側の新たな堤防と一体化していた。
その上には、羽田の渡しの碑があった。
となりには多摩川八景の案内板。
その裏側はここ「多摩川の河口」についての説明。左のマップでは京急空港線が海老取川の手前の旧「羽田空港駅」のままになっていた。
羽田の渡しについての詳細な解説と、渡し舟時代の景観の浮き彫りがあった。
羽田の渡し
古くから、羽田漁師町(大田区)と上殿町(川崎市)を渡る「羽田の渡し」が存在していたこという(現在の大師橋下流、羽田三丁目で旧城南造船所東側あたり)
この渡しは、小島六佐衛門組が営んでいたので「六佐衛門の渡し」とも呼ばれていた。
渡し場付近の川幅は約40間(約80m)ぐらいで、「オーイ」と呼ぶと対岸まで聞こえたという。
その昔、徳川家康が狩りに来た帰りに、お供の者と別れて一人でこの渡し場にl来たところ、船頭は家康とは知らずに馬のアブミを取ったという伝説が伝わっている。
ここで使われた渡し船は、20~30人が乗れるかなり大きなもので、この船を利用して魚介類、農産物、衣料品など、生活に必要な品々が羽田と川崎の間を行き来していた。
江戸の末には穴守稲荷と川崎大師参詣へ行き交う多くの人々が、のどかで野梅の多かった大森から糀谷、羽田を通り羽田の渡しを利用するため、対岸の川崎宿では商売に差しつかえるので、この渡しの通行を禁止して欲しいと公儀に願い出るほどの賑わいをみせていたという。
また、明治後期から昭和初期にかけて、川遊びをする船も往来していた。
物資の交流だけでなく、人々の生活、文化の交流など大きな貢献をしてきた羽田の渡しは時代の変化とともに多くの人々に利用されたが、昭和14年に大師橋が開通したことにより廃止された。大田区
碑がある場所から多摩川を眺める。左が下流側、高速横羽線の橋、右の橋が大師橋。
大師橋は2007年に全面完成したばかり。前に高速横羽線を通ったときに隣の橋の方が立派で気になっていたが、京浜工業地帯をつなぐ産業道路の橋だった。
大師橋 - Wikipediaには同じ位置からの美しい夜景が載っている。
碑のとなりには旧大師橋の親柱が置かれていた。
現在の大師橋の親柱(壁?)
力強いケーブル。歩行者は見当たらなかった。
大師橋の西側にある本羽田公園にあった説明板。
こちらには六郷川(=多摩川)の由来が記されていた。
六郷川
多摩川は奥多摩湖から上流部分を丹波川、二子玉川付近から下流を六郷川と呼ばれている。六郷川の六郷とは、昔ほぼ大田区全域を指す広域の地名だった。その名は大変古く、由来はさだかではない。多摩川下流の八幡塚、高畑、古川、町屋、道塚、雑色の六郷を総称したという説と、多摩川上流の六郷の流れが合流した六郷川にちなむとの説がある。多摩川は江戸時代には奥多摩の材木を運ぶ水路として栄え、大正の終わり頃まで、帆掛け舟やいかだが流れるのどかな風景であった。この付近の六郷川沿いにはいかだ問屋が軒を並べていたという。
大師橋の由来はこの公園の別の案内板にも記されていた。
大師橋
大師橋は1939(昭和14)年に多摩川に架けられた東京と川崎・横浜の京浜工業地帯を結ぶ産業道路の橋である。橋の少し下流には「羽田の渡し」碑がある。
これは現在の羽田3丁目と川崎市殿町を結んだ渡船で、江戸時代に対岸の川崎大師参詣にも利用され賑った。稲荷新田を開拓した名主小島六郎左衛門にちなみ「六郎左衛門の渡し」とも呼ばれていたが、大師橋完成とともにその姿を消した。
羽田の赤レンガ堤防の見所、つまり一番よく残ってい場所は、2つの橋の間にあったがそれは次回で。
つづく。