墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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那覇まちま~い「パワースポット奥武山と山下町めぐり」ツアー・3(真珠道・落平編)

前回のつづき。 

山下町を巡ったあと更に斜面を上って、丘に沿って今も残る真珠道(まだまみち)跡へ向かった。 

真珠道は16世紀初頭か使われている道筋で、かつて琉球王朝時代に首里城と那覇港を結ぶ幹線道路・軍用道路だった。

 

一列になって歩く。

 

グレーチング(格子状の側溝蓋)のスキマから鮮やかな色の花がみえた。

 

このような素敵な枝道が次々と現れる。通らなかった下り道。

 

通らなかった上り道。先にはお墓があるようだった。

 

琉球王国時代からの敷石が残るところもあった。 

 

真珠道沿いには、木の電柱も幾つか残っていた。

 

板壁と街灯柱と電柱。

 

2つの柱の間には石敢當(いしがんとう)があった。T字路などの突き当たりにある魔除け。

 

歩いてきた真珠道を振り返ったところ。

 

ここで石敢當を背にすると、青い扉の駄菓子屋さんがあった。

 

「おばあ」が一人で切り盛りしている駄菓子屋さんで、ガイドの方によると営業中に立ち寄れるのは稀な機会なのだそう。

 

展示物のようでもあった。ガイドの方も買い込んでいた。

 

店の前の道を行くと崖の縁に出た。奥の緑は奥武山。

手前の建物には人が住んでいる気配がなかった。

 

地味な場所についている階段を下りて、最初に渡った県道7号に出る。

 

階段の途中から。結構急斜面。

 

県道沿いのビルの1階で、一見何かの収納庫のようであった一つ目のウティンダ(落平)

 

こちらはその先、自然の崖にあって水が流れていたウティンダ(落平)

 

いただいたパンフによれば、この辺りが海岸線だった頃、海岸への崖から水が豊富に湧き出ており、樋から落ちる水を貯めてここから対岸の那覇のまちへ船で運んで売っていたとのこと。

 

こちらには詳しい説明板もあった。

落平(ウティンダ)

この地にあった樋川(ヒージャー)跡。樋川とは、丘陵の岩間から流れ落ちる湧水を、樋を設けて取水する井泉のこと。
落平は、名は港湾内の奥武山(おうのやま)に向かい合う垣花村にあり、崖の中腹からの湧水は、小滝のように崖下の漫湖の水面に注いでいた。また、落平とその背後の丘陵の松林は、漢詩や琉歌で詠まれるなど那覇の名勝で、楊文鳳(嘉味田親雲上光祥)は、「落平瀑布」と題する漢詩を詠んでいる。

1554年、那覇港南岸の突堤に築かれた「屋良座森城(やらざむいぐすく)」の竣工記念碑には、外敵の侵入の際、軍勢は屋良座森城に集結して防御せよ、と記すとともに「ねたてひがわのミつのかくご(根立樋川の水の格護)」がうたわれた。落平は、この「根立樋川」のことだともいわれている。
那覇港に出入りする船は、朝から夕方まで落平に集まり、取水のため、先を争って口論が絶えなかったという。中国からの冊封使一行の来琉を控え、落平を調べると、樋が壊れ、水量が減っていたため、泉崎村の長廻筑登之親雲上等36人の寄付によって、1807年に落平の樋を修理し、さらに60間(約108m)程東に、新しい樋を設け、新旧2本の樋で給水したという(「落平樋碑記」)
浮島と呼ばれた那覇は、周りを海に囲まれているため、井戸水は塩分が多く、飲料には適さなかったという。1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)後、県庁所在地として人口が増加した那覇では、水問題が一層深刻となっていた。そのため、大きな水桶2~3個に注いだ落平の水を、伝馬船で那覇に運び、それを、女性がてんびん棒にかついて売り歩く水商売が繁盛したという。明治期以来、水道敷設計画は何度も持ち上がっていたが、1933年(昭和8)に至って念願の水道が敷かれ、水道普及により、水商売も姿を消していった。
終戦後、米軍の軍港整備にともない、那覇港南岸の垣花が敷き直されたが、そこから出た土砂や、那覇港浚渫の土砂を用いて、1957年(昭和32)頃、落平と奥武山の間約4,000坪が埋め立てられ、陸続きとなった。水が湧き出る落平の岩肌は残されたものの、一帯は宅地化が進んだため、落平の水量も減少した。現在では、岩肌からしみ出る程度となっており、1807年に新たに造られた樋川は、拝所となっている。

 

かつて樽を載せた舟が横付けされていた頃の写真もあった。

 

ここでツアーは終了した。

崖下に、一部しか判読できないが内容は想像できる看板が残っていた。