墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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那覇まちま~い「パワースポット奥武山と山下町めぐり」ツアー・2(山下町第一洞穴遺跡・ペリー区編)

前回のつづき。 

奥武山公園の次に、県道7号を横断して南西に隣り合う山下町へ。

下のグーグルアースで、運動公園と斜めのグリーンベルト状の丘陵との間のエリア。

 

この山下町は、戦後の一時期「みなと村ペリー区」になった(1957年まで)

戦前から「山下町」だったが、占領した米軍(マッカーサー)が山下奉文陸軍大将を彷彿させる地名ということで、黒船で日本を開国させたペリー提督にちなむ名前に改名された(ペリーは自身は来ていない)ペリー区 - Wikipedia

 

こちらは県道沿いにある「ペリーもち屋」 

営業しているがこの日は大量発注があって忙しかったようで見学できなかった。


Frescore山下というマンションを建設中。ツアーでは1960年代に映画館「ペリー劇場」があった場所と伺ったと思ったが、それは次の「ペリー保育園」の方とのコメントを後からいただいた。

 

こちらのビル、右の壁には「ペリー保育園 Perry nursery school」と書かれている。

 

「ペリー美容室」

 

こちらは「ペリー内科小児科医院」

ペリー区だった時代は60年ほど前の12年間だが、記憶には新しいということか。

 

この旧ペリー区の住宅地の坂の小道を登っていくと、いきなり岩の塊が出現した。

「山下町第一洞穴遺跡公園」の表示がある。

 

階段を登っていくと岩には小さな洞穴がある。

 

ここから、国内最古級・3万年以上前の人骨が出土した。

 

階段を上がった場所が小さな公園となっている。2016年1月に新しく整備された公園だった。

 

こちらが現地説明板。

那覇市山下町第一洞穴 沖縄県指定史跡 昭和44年8月26日指定
洞穴は標高約15mの琉球石灰岩小丘にあり、間口約1.5m、奥行き約5.0m、高さ約3.0mで南に開口している。発掘調査は二度行われた。1962年の調査では鹿の骨・角製品や石器(石弾)等が発掘され、1968年の調査では6枚の堆積層が確認されている。下層の6枚目の堆積層からは、鹿の骨や角を削ってつくった骨・角製品や、化石化した8歳ほどの子供の大腿骨と脛骨が出土している。また、3枚目の層から採集した木炭の年代測定により、およそ32,000年前の遺跡であることが明らかにされた。沖縄最古の遺跡である。

 

レプリカも触れる形で展示されていた。

 

旧石器時代の人骨は、本土では酸性の火山灰質の土壌で溶けてしまうので、ほとんど残ることはない。静岡県浜北区の石灰石採石場で1962年(昭和37年)に発見された1.4~1.8万年前の”浜北人”ぐらい。

ところが沖縄はアルカリ性の石灰岩で出来ているのでこれまでに、港川人(1.8万年前)、サキタリ洞人(1万2千年前)、石垣島・白保竿根田原洞窟出土(2万年前)など、数箇所から出ている。

 

港川人は県立博物館にて、骨のレプリカと復元モデルが見られる。

沖縄県立博物館 沖縄県那覇市おもろまち - 墳丘からの眺め

 

サキタリ洞人が見つかったサキタリ洞窟は、見学ツアーがある。

ガンガラーの谷・サキタリ洞遺跡で国内最古(9千年以上前)の埋葬人骨発見のニュース - 墳丘からの眺め

 

白保竿根田原洞窟は2008年に石垣島の新空港建設に伴って発見されたばかりだが、まとまった数の人骨が出ている。

つい最近もプロ向けの現地説明会が開催された。

白保竿根田原洞穴遺跡の現地説明会(研究者対象) 日本考古学協会

 

旧石器時代の人骨が残っていることは、日本列島に人類が到達したルートだった証左にもなるが、実際に古代の道具だけを使って海を渡る実験も行われたばかり。

祖先はどこから来た? 草舟で大海渡る体験、今月から |NIKKEI STYLE

 

結果は自力では到着ならず。潮の流れが速く10km北に流され伴走船に頼らざるを得なかった。

潮流を読み直して再挑戦していただきたいです。