前回のつづき。
千住大橋を渡ると、鳥居がチラッと見える気になる枝道があった。
上記の左の解説板。右は材木屋さんだった。
千住の河岸
江戸時代、千住大橋袂の河岸には、秩父から荒川の水運を利用して高瀬舟で運ばれてきた材木を取り扱う家が並んだ。古くからこの地で材木商を営んできた旧家に伝わる文書(「両岸渡世向書物」荒川区指定文化財)からは、これら千住の材木商が農業の合間を利用して材木を取り扱うようになったことにはじまり、それが材木問屋に発達するに至った経過などがうかがえる。
材木問屋は、千住大橋袂の熊野神社門前に多く、江戸への物資集散の拠点となるに至った。熊野神社には、弘化2年(1845)、千住の材木商が寄進した手水鉢(荒川区登録文化財)や常夜灯が残り、材木商たちの信仰の一端をうかがい知ることができる。これらの材木問屋は、江戸時代の千住宿や近代以降の南千住の発展に大きく寄与した。荒川区教育委員会
その先には千住大橋とゆかりの深い、熊野神社があった。残念ながら門扉はすでに閉まっていた。
神社の前にあった解説版の内容。
熊野神社
創建は永承5年(1050)、源義家の勧請によると伝えられる。
大橋を荒川(現隅田川)にかける時、奉行伊奈備前守は当社に成就を祈願し、文禄3年(1594)橋の完成にあたり、その残材で社殿の修復を行った。以後、大橋のかけかえごとの祈願と社殿修理が慣例となった。
また、このあたりは材木、雑穀などの問屋が立ち並んで川岸(かし)とよばれ、陸路奥州道中と交差して川越夜舟が行きかい、秩父・川越からの物資の集散地として賑わった。荒川区教育委員会
そのまま細道を進むと、対岸で気になっていた細いアーチ橋の袂に出た。
袂は東京電力の敷地だった。橋で渡すものにもいろいろある。
その背後には、子供たちの嬌声が響く公園。
天王公園という名前だった。
円墳のような遊具?もあった。
中央には大きな岩山がある(ただし登れない)
宝永4年(1707)に下野国皆川藩主であった米倉主計昌照が下屋敷を構えた場所だった。
公園の東側の道は魅力的な曲がり具合。
誓願寺の裏門? 大きな板戸があった。
北側を振り返ると東京電力の橋がタワーのようだった。
公園沿いの道を南へ行くと、荒川区南千住図書館があり、なかになんと区の郷土資料館・荒川ふるさと文化館があった。
1階の奥に常設展示室があった。入場料は100円。
残念ながら内部はすべて撮影不可だったが、考古から中世、近世、近現代までの充実した展示だった。縄文時代や古墳時代の資料も面白かったが、千住大橋関連(ジオラマもあった)や、戦時中まであった千住製絨所の資料は大変興味深かった。
展示の終盤には昭和の家屋の実物大の復元展示もあった。江戸東京博物館や深川江戸資料館ほど大掛かりではないが、空気も昭和で止まったような一角があった。
下記のサイトの最後の方に写真がある。
製絨所のことをたずねたら、周囲の案内図をいただいた。
過去の企画展資料など何点かも購入したあとに、暮れかけた中を何箇所が回った。
つづく。