墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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千住製絨所跡煉瓦塀 東京都荒川区南千住6丁目

前回のつづき。

素盞雄神社から、再度荒川ふるさと文化館の前をとおり、スーパーのライフの方へ歩いていくと、目当ての煉瓦塀があった。

 

すでに陽は沈んでいたので煉瓦の色が暗めになってしまった。

かつて門柱があった部分。

 

塀の前には詳しい解説板があった。

荒川区登録有形文化財(歴史資料)

旧千住製絨所煉瓦塀

この煉瓦塀は、明治12年(1879)に創業を開始した官営工場、千住製絨所(せいじゅうしょ)の敷地を取り囲んでいた東側の塀です。塀の長さは北側9.9m、南側8.4mで、正門の袖柱の一部と、塀を保護するために設けられた車止めの一部が残っています。建設年代は、明治44年(1911)から大正3年(1914)頃と推定されます。

千住製絨所は、ラシャ工場とも呼ばれ、殖産興業、富国強兵政策の一貫として軍服用絨(毛織物)の本格的な国産化のために設けられた施設です。軍服用絨を製造するだけでなく、民間工場に技術を伝授する役割も果たしていました。初代所長はドイツで毛織物の技術を学んだ井上省三です。荒川総合スポーツセンターの西側に井上省三の胸像が保存されています。

当初の工場は、荒川(現隅田川)沿いに建設されましたが、次第に周辺の田園地帯を取り込んで拡張を重ね、大正時代には、敷地面積は3万2406坪になりました。千住間道を南限とし、現在の荒川総合スポーツセンター、南千住野球場、南千住警察署、都営住宅、都立荒川工業高校、東京都水道局東部第二支所などが旧敷地に該当します。

千住製絨所の登場は、南千住地域に大きな影響を与えました。明治時代、汐入の二つの紡績工場(南千住8丁目)、石浜神社付近のガス会社(南千住3丁目)など大規模な工場が進出し、また隅田川貨物駅なども設置され、南千住は工業と商業の町へと変貌していきました。内務省、農商務省、陸軍省と所管が代わり、戦後、昭和24年(1949)には、大和毛織株式会社に払い下げられましたが、同36年(1961)に工場が閉鎖され、80年余りの羊毛工場の歴史に幕を閉じました。構内にあった工場の建物等は現存していないため、この煉瓦塀が千住製絨所に関する数少ない建造物であり、歴史的価値の高い文化財です。

平成22年1月、この煉瓦塀は日本紙通商株式会社より荒川区教育委員会に寄贈され、株式会社ライフコーポレーションのご協力を得て、荒川区の近代化遺産として保存され、地域の歴史を刻んだモニュメントとして新たなスタートを切ることとなりました。保存に当たりご協力いただきました日本紙通商株式会社、株式会社ライフコーポレーションはじめ、関係各位に感謝申し上げます。

平成22年10月 荒川区教育委員会

 

ここは壁が切り取られた部分。

 

それが続いていた先。

 

こんな感じで並んでいる。自転車で買い物に来た人にはちょっとじゃまなものかも知れないが・・・

 

上部軒下のような部分には三重の段差がつけれられていてゴージャス。

 

千住製絨所煉瓦建築概略図(「煉瓦のある風景~あらからの建築と煉瓦産業」荒川区荒川ふるさと文化館企画展資料、45頁より)

下辺の赤い2ヶ所が、その現存部分だった。

3万2400坪は約10.7ha。サッカー場なら15面入る。

 

下記がその資料。表紙の写真は、なんと小平で見たガス資料館の「くらし館」だった。

そういえば「千住工場計量器室」との表示があった。

くらし館常設展示 @GAS MUSEUM がす資料館 東京都小平市 - 墳丘からの眺め

 

荒川ふるさと文化館の方に、高校の裏にも煉瓦塀があるとうかがっていたので、高校の周囲を廻っていくと・・・西側面に残っていました!

 

ここは結構長く残っている。そして現役で壁として頑張っている。

何人もの野球部青年も、塀に沿ってランニングして頑張っていた。

 

かつて表示板があった跡か。

 

カーブに沿って壁が屈曲している箇所もある。

 

こちらにあった説明板。

千住製絨所跡

この付近一帯には、明治12年(1879)に創業された官営の羊毛工場である千住製絨所があった。

工場建設用地として強固な基盤を持ち、水利がよいことから、隅田川沿いの北豊島郡千住南組字西耕地(現南千住6-38~40,45付近)が選定された。敷地面積8,300余坪、建坪1,769坪の広大なものであった。明治21年(1888)に陸軍省管轄となり、事業拡大とともに、現荒川総合スポーツセンターあたりまで敷地面積が拡張された。

構内には生産工場にとどまらず、研究施設や福利施設などが整備され、近代工場の中でも先進的なものであった。

戦後民間に払い下げられ、昭和37年、敷地の一部は野球場「東京スタジアム」となり、人々に親しまれてきた。

一部残る煉瓦塀が往時を偲ばせる。

荒川区教育委員会

 

看板が並んでいたのだろうか。

 

ここは、あとから開けてふさがれた出入り口か。

 

こちらも門のつくりと煉瓦塀の雰囲気が合わないのであとからのものか。

 

現在の北端。かつてはまだ先に続いていた。

 

上記の背面には神社(若宮八幡)のある公園があった。

 

「若宮八幡神社と八幡太郎義家伝説」の解説板。

 

明かりが点った拝殿で参拝。二股大根は見当たらなかった。

 

荒川総合スポーツセンターの方向へ歩いていくと、解説板にあった銅像があった。

 

千住製絨所初代所長・井上省三。若くして亡くなり、明治21年に銅像が造られた。

 

賑わうスポーツセンター。屋内プールもある。

 

その南側の千住間道。

 

立地のいい店(の跡?)があった。

 

そのまま南東に歩いて南千住駅へ。

 

 駅前広場には松尾芭蕉の像があった。

「行く春や 鳥啼き 魚の目は泪」の句を、矢立て初めとして詠んだ。

舟を降りたのは北千住側かも知れないが、千住大橋は架かっていたから南千住側にも足を運んだのだろう。