古市古墳群南端の高屋八幡山古墳(春日山田皇女陵)を訪ねた後は国道170号を北西へ。
近鉄長野線の上にかかる橋を渡って振り返ると高屋築山古墳(安閑天皇陵)が。見送られているような気持ちになりました。
そこから南への枝道は下り坂。
枝道へは降りずに、石川の支流を渡ります。
川の西側には近鉄の古市車庫。
その先で西の枝道に入ると民家の背後にまた古墳。さきほどの古墳との距離は350mぐらい。
グーグルに導かれた細道の先に…
一気に視界が開けて、周壕に囲まれた雄大な墳丘が目の前に。
地図の後円部先端側に出て、そこから北側の堤上を西に歩いて行きました。
後円部先端側です。
白鳥では無いですが、白い鳥。
少し歩いて振り返って。
墳丘北側の壕が見通せるポイントに。左が後円部、奥が前方部で、くびれ部に造り出しがあります。
軽里大塚古墳(前の山古墳、白鳥陵古墳、日本武尊白鳥陵)は、墳丘長200mの前方後円墳で、周濠の幅は30~50m。
後円部径106m・高さ20.5m、前方部幅165m・高さ23.3mと、前方部が”発達”した形態で、土師ニサンザイ古墳と相似形とのこと。築造時期は5世紀後半。
下記の藤井寺南小学校のサイトの解説が、とてもわかりやすかったです。
堤の道を進んで行くと、北側の堤は竹内街道でした。
柵には白鳥の絵柄。
堤の外(北)側とは、5m位の高低差でしょうか。
「竹内街道は、難波から飛鳥への日本最古の官道」だったそうです。
心地より曲がり具合です。
前方部左端側には”ウォーキング・トレイル”の説明板。
白鳥陵古墳(前の山古墳)
白鳥陵(はくちょうりょう)古墳は、墳丘長190mの前方後円墳である。古墳が造られた年代は、前方部が後方部より高い墳丘の形や、発見された埴輪の特徴から古墳時代後期(約1500年前)と考えられている。この古墳は現在、宮内庁によって景行天皇の皇子であった「日本武尊」の陵墓とされている。また「記紀」には日本武尊の白鳥伝説が記されている。(白鳥伝説)日本武尊が全国各地に遠征し、その帰途伊勢の能褒野で息をひきとった。武尊は、白鳥に姿を変え大和の琴弾原を経由し古市に飛来したことが日本書紀に記されている。その後、埴生の丘に羽を曳くがごとく飛び去ったという伝説である。この白鳥伝説が「羽曳野」の地名の由来となっている。
左奥に後円部、右は前方部先端側。
前方部先端側の直線。民家の間に拝所の鳥居が見えました。
前方部側の、細道(?)を通って拝所を目指しました。