墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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離湖古墳 京都府京丹後市網野町小浜

2022年3月上旬の北近畿墳行の2日目。

最初に向かったのは、宿(ホテル丹後王国)から3㎞北西の離湖(はなれこ)内にある離山(はなれやま)上にある古墳。

離山の南側の駐車場に停めたときは6時20分ぐらい。まだ日が昇る前でした。

 

離湖の説明板には古墳についての記載も。

網野ふるさと自慢百選7
離湖(はなれこ)
離湖は、周囲3.8㎞、水深7m、水面面積35haを測る府下最大の淡水湖です。
冬には渡り鳥がやってくるほか、ヘラブナやワカサギ釣りの名所としても知られています。
中央には、かつて島であった「離山」と呼ばれる山があります。山上には、古墳時代の有力者を葬った離湖古墳と離山古墳が築かれています。
また天文7年(1538)の「丹後国御檀家帳」に「あみののはなれと申す寺」と記された龍献寺は、離山にあったと伝えられています。
京丹後市教育委員会

 

離山は、山といっても標高30mほど。

 

別の説明板によれば、もとは日本海につながっていた湾の一部だったそうです。

離湖

離湖は面積389㎡、最大水深7mの京都府下最大の淡水湖です。かつては日本海とつながっていた湾の一部でしたが、その後、八丁浜の砂州や砂丘の成長により、日本海と隔絶された潟湖になったと考えられています。この湖の周辺いは縄文時代早期の遺物が発見されており、西岸には古墳群も分布しています。湖に浮かぶ離山にも2基の古墳が確認されており、そのひとつである離湖古墳からは地元の凝灰岩を用いた長持形石棺が見つかっています。
京丹後市教育委員会

 

湖面は、離山を中心にきれいな半円形を描いています。

 

離山の「アスレチック」の手書き絵地図。

 

この階段から上がっていきましたが、使われなくなったアスレチック遊具がありました。

 

少し進んだ頂上に、平らな部分と建物。

 

そこが離湖古墳でした。

離湖古墳
離湖古墳は平成2年の発掘調査により発見された古墳で規模は南北43m、東西34m、高さ6.4mの不整形な古墳です。墳丘の裾には、朝顔形埴輪、円筒埴輪を置いています。墳頂部は2つの埋葬があり、長持形石棺と箱形木棺を直接埋葬しています。
第1主体部(長持形石棺)は盗掘にあったため石棺の底石と副葬品の一部が残っているだけでした。長持形石棺の底石は長辺2.4m、短辺1.11m(西)、0.93m(東)、厚さ15~16㎝で、縄掛突起含む長さは2.75mです。底石には側辺をはめこむ溝があり、長側石が短側石をはさむ形で掘り込まれています。幅の広い南東側を頭にして遺体を埋葬したと考えられます。副葬品の多くは盗掘の際持ち去られましたが、わずかに鉄刀、鉄斧、刀子、鉄鏃、三角板鋲留短甲等の破片が残っていました。
第2主体部(箱形木棺)は長さ4.88m、幅0.7m(西)0.8m(東)の棺で、仕切り板で3つに区切りその中央に石棺と同じ方向(南東)に頭を向けて葬っています。副葬品は頭部付近の右側から銅釧2、石釧1、勾玉1が、左側からほぼ対象の位置で鏡1、堅櫛1、勾玉。管玉、ガラス小玉多数が出土しました。頭部仕切り板より東から堅櫛1、足部仕切り板より西から鉄刀1、鉄剣1が出土しました。棺外からの出土遺物は鉄鉾1と鉄鏃3です。
古墳に埋葬される長持形石棺は「王者の棺」ともよばれ、大阪府大山古墳(伝仁徳天皇陵)や京都府久津川車塚古墳などの大王級の古墳に埋葬されるりっぱなものです。また第2主体部(木棺)に副葬された銅釧路、石釧、鏡等は京都府下でも数少ない貴重な遺物です。本古墳は、丹後町産土山古墳、弥栄町ニゴレ古墳とともに古墳時代中期を代表する古墳です。
平成5年3月 京丹後市教育委員会

 

実測図のアップ。

 

レンガで囲っているところに竪穴式の埋葬施設があったと思われます。

 

建物の中には、長持形石棺の底板が保管されています。

 

持ってきたライトが役にたちました。

 

縄掛け突起を含む全長は2.75mあります。

 

建物の後ろは、離山の南東側崖面。


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