墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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野田院古墳 香川県善通寺市善通寺町

宮が尾古墳の次は、同じく有岡古墳群に属する野田院(のたのいん)古墳。今回の讃岐古墳旅のメイン墳でした。

下記は墳丘そばの駐車場脇にあった説明板。

野田院古墳がその中腹にある大麻山(おおさやま)は尾根南西の琴平山には金比羅神社が鎮座します。

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瀬戸内海国立公園 大麻山園地案内図

善通寺市の南に位置する大麻山(おおさやま:標高616m)から琴平山(標高524m)に広がる大麻山園地は、瀬戸内海国立公園に位置します。
琴平山には金刀比羅宮奥社があり、その先の琴平山中腹には金刀比羅宮御本宮があります。
大麻山の山頂部は平らな溶岩台地で、山頂広場からは瀬戸内海や丸亀平野が一望できるとともに、約1㎞に渡って800本あまりの八重桜が植えられた桜並木があります。
北西部には、国指定史跡有岡古墳群の野田院古墳や、キャンプ場が整備されています。

 

駐車場の背後に、石積みと展望施設が見えていました。

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野田院古墳の解説です。

3世紀後半という大変古くて貴重な古墳です。

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野田院(のたのいん)古墳(3世紀後半)
野田院古墳は大麻山北西麓のテラス状平坦部(標高405m)という非常に高い場所に築かれた、丸亀平野周辺部で最古式の前方後円墳です。
その規模は全長44.5m、後円部径21.0m、後円部の高さ2.5m、前方部幅13.0mで、前方部は盛り土、後円部は安山岩塊の積石によって築かれています。
また、前方部はくびれ部が細く締まり、先端が撥形に開く発生期の前方後円墳の特徴を示していることなどから、3世紀後半に築造されたと考えられており、最初にこの地に登場した首長の墓ではないかと考えられています。
市内には他にも、大窪経塚・大麻山経塚・大麻山椀貸塚・丸山1号・2号墳などの積石塚がありますが、この古墳群は坂出から綾歌の積石塚を経て、高松の石清尾山古墳群と連鎖することが知られています。
つまり、この古墳は積石塚古墳の発生や変遷を研究し、当時の讃岐の地域集団関係を知る上で非常に貴重な遺跡なのです。
善通寺市 平成4年度

 

まずは展望施設の登って見下ろして。

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まさに、天空の墳丘!

 

瀬戸内海の島々が、きれいに見渡せます。

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山座同定ができる説明板。

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野田院古墳からの展望
野田院古墳が造られた時の集落は今の善通寺市街地の辺りで、その標高は約30m、野田院古墳は標高約400mにあり、全国でも比高差のある場所に造られた古墳としても知られています。付近には視界をさえぎる山も少なく、古墳からは丸亀平野・三豊平野・瀬戸内海はもちろんのこと、遠く吉備(岡山):安芸(広島)・伊予(愛媛)まで展望できます。よく晴れた日には里大橋のみならず、しまなみ海道(因島大橋)も見えます。

 

手前の三角が筆ノ山。左からの稜線が天露山、その奥の台形が高見島、その右は「広島」という島です。

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筆ノ山の左に連なる山は、右から我拝師山、中山、火上山。

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墳丘からの眺めとブログタイトルをつけたからには、いつか訪ねたいと思っていた一基でした。願いが叶って嬉しいです。

 

石積みの後円部の向こうに土盛りの前方部が細くついています。

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前方部が細くて長く、先端でバチ状に拡がる古い形式の前方後円墳です。

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後円部先端側から。2段で、ほぼ垂直に立ち上がる後円部です。

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土盛りではなく、「石」積みであることが最大の特徴でもあります。

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積石塚 Cairn Tomb
古墳の中には土の代わりに川原石や山石を積み上げて造った「積石塚」と呼ばれるものがあります。瀬戸内海沿岸部には香川県を中心に、古墳発生期から前期に造られた数多くの積石塚が分布していることが知られています。
この他には長野県を中心に分布する古墳時代後期から終末期にかけて造られた積石塚が知られている程度で、全国的には分布していません。
朝鮮半島に同様の積石塚が認められることから、渡来人が伝えたとする「外来説」と、日本で独自に発生したとする「自生説」がありますが、香川県では白鳥町の成重遺跡(弥生時代中期)や善通寺市の稲木遺跡(弥生時代後期)で集石墓が確認されており、積石塚は古代の讃岐で発生したのではないかと考えられています。これは讃岐地方に古式の積石塚が多く残ることとも符合します。
野田院古墳では保存整備工事に伴う墳丘積石内部の発掘調査によって、優れた土木技術を用いて構築していたことが判明しました。讃岐地方の積石塚で内部構造が明らかになったのは初めてのことです。弥生時代の集石墓は平地にあります。また、川原石を積み上げた簡単な構造であり、短時間で技術が発達するとは考えにくいことから、自生説とともに高句麗の積石塚の構築技術の伝来も考える必要があるかも知れません。

 

築造の作業工程の解説までありました。

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作業工程1
最初に古墳を構築する場所を決めます。野田院古墳の場合は見晴らしのいい尾根が選ばれました。
まず尾根の上を平らに整えることから始めますが、その周囲には急な斜面が残ります。平坦部から一部傾斜部にかけて後円部の円周を設定し、これに沿って石材を配置しています。

作業工程2
次にその内側に石材を詰めます。平坦部では小型の石材を詰めていくだけですが、傾斜部では内部に詰める石材は比較的大きく扁平なものが多く、地山と逆の向きに連続して立て、整然と配置しています。これは斜面部分の石材が下方に滑り出すことを防ぐことが目的と思われます。傾斜部に高く石材を積み上げる際に、崩れにくい積み方を知っていたようです。この工程で後円部の基礎を水平に仕上げています。

作業工程3
作業工程2で造られた平坦部の上に二基の石室を作り始めます。まず石室を造る部分に細かい石を敷き詰め、この上に荒い粘土を敷き、石室最下段の石材を配置します。次に粘土床用の細かい粘土を敷いています。この粘土は石室の床面だけでなく、石室最下段の石材を包むようにその外側にも及んでいます。この粘土の中から多数のガラス小玉が出土しました。通常の副葬品ではなく祭祀遺物だったようです。
石室の四方の壁を積み上げながら後円部周囲の壁も同様に高く積み、その間に石材を詰めていきます。後円部の一段目は石室の下半分が積み上がった段階で完成します。この作業工程は解体修理の時に後円部の断面で確認できました。

 

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作業工程4
次に後円部の一段目の上に二段目を造り始めますが、この時に前方部の一部を坂道状に造っています。古墳を造る場所を決めるにあたっては、その材料となる石材の取りやすさも大きく影響したと思われますが、野田院古墳の北東にある尾根付近には石材の露頭地があり、尾根伝いに運び降ろしたものと考えられます。前方部は土でできていますが、くびれ部でその断面を見ると後円部の1段目の高さで前方部側へゆっくり下る面が確認できます。墳丘(後円部)へと石材を運びやすくするための坂道が造られていたようです。この作業道を利用して重い石材を運び上げたようです。
二段目は一段目よりひとまわり小さくし、まわりに平坦な段を造っています。造り方は一段目と同じで、石室の四方の壁が完全に積み上がった高さで後円部の二段目が完成しています。

作業工程5
ここで石室に巨大な石で蓋をします。この蓋石を覆い隠すため、この上には更に多くの石が積まれていたようですが、後円部の三段目は完全に崩れていたためもとの形は不明です。
最後に作業道としての使用が終わった前方部を完成させ、その表面に石を葺き古墳が完成します。
後円部の北西側は不安定な斜面にはみ出ています。後円部を造る場所をここから少し南東に移せば、全体を平坦な場所に造ることができたはずです。傾斜部に造られた後円部の側面はとても高い壁になっていて、しかも平野の方に向いています。皆が生活する場所からよく目立つように考えたようです。

 

前方部左裾側から。

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右裾側から。

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後円部脇から前方部方向を。

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円筒埴輪ではなく、壺で荘厳されています。

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後円部は斜面にもかかっていますが、その斜面上で崩れないように石を積む技術が使われていました。

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野田院古墳後円部の内部構造模型
善通寺市では昭和57年度に実施された王墓山古墳の緊急発掘調査を契機に、市内の代表的な6基の古墳が有岡古墳群として国の史跡に指定されました。そして昭和61年度から平成3年度まで王墓山古墳の、平成4年度から平成8年度まで宮が尾古墳の保存整備事業を実施しました。
続けて平成9年度から平成14年度にかけて野田院古墳の保存整備事業を実施しました。野田院古墳は石を積んで造った前方後円墳です。このような古墳は積石塚と呼ばれており、香川県を中心に瀬戸内海沿岸部に多く分布していますが、内部構造まで解明するような大規模な発掘調査や解体復元工事は国内でも初の試みでした。
もとの姿をとどめる部分をできるだけ残すため、墳丘の調査は解体修理を行う範囲に限りましたが、これまでに知られていなかった優れた土木技術や知識によって造られていることが判明しました。
一番驚いたことは斜面部分の構造です。後円部は平らに整えられた尾根の上から一部急な斜面にかけて造られています。平坦な部分の内部には小型の石材を詰めていますが、傾斜部では比較的大きく扁平なものが多く、地山と逆の向きに連続して立て、整然と配置しています。これは斜面部分の石材が下方に滑り出すことを防ぐことが目的と思われます。傾斜部に石材を高く積み上げた時に、崩れにくい積み方を知っていたようです。このような工法で後円部の基盤が丈夫に造られています。左の石貼りはその断面模型です。
調査では構築の工程まで知ることができ、そこで得られた資料によって野田院古墳を構築された当時の姿に蘇らせることができました。

墳丘の規模
全長44.5m、後円部の直径21.0m、後円部の高さ約2m
前方部の長さ23.5m、前方部の幅6.0m~0.8m
前方部の高さ約1.6m

石室の規模
第1主体部
全長5.15m、幅0.7~0.9m、高さ約1.0m
第2主体部
全長5.70m、幅0.85m~1.0m、高さ約1.0m

 

その技術を示す、石の嵌め込みパネル。

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基底部は傾斜に逆らうように斜めに刺すように積まれていたそうです。

 

築造時の想像絵図も!

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充実したひとときを過ごすことができました。

 

ちなみにですが、宮が尾古墳からグーグル先生が教えてくれたルートは狭くて急で草が覆い被さってくるような道でした。近道だとは思いますが、好天時で軽自動車に1人乗りだったのでなんとか無事に通れたのだと思います。

山塊の北東裾の丸山古墳(行きそびれましたが)の方からなら、普通車でも駐車場まで楽に上がれるのでそちらをお勧めします。