墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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王墓山古墳 香川県善通寺市善通寺町

前回の青ノ山からは丸亀市と善通寺市を横断して、国指定史跡の有岡古墳群へ

最初に向かったのは我拝師山・東部山・大麻山と三方を山に囲まれた平地に立地する王墓山古墳。

 

県道24号沿いの訪ねやすい場所でした。

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道路の反対側にあった説明板。

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国指定史跡 有岡古墳群
善通寺市内には400基を越える古墳の存在が確認されています。仲でも筆ノ山・我拝師山(がはいしやま)で北部を、大麻山(おおさやま)で南部を限られた弘田川流域の有岡地区には、同一系譜上の首長墓と考えられる前方後円墳が集中し、大麻山山麓の谷間には、いたる所に後期古墳が群集していることが知られています。
中でも、野田院古墳・磨臼山古墳・鶴が峰4号墳・丸山古墳・王墓山古墳・宮が尾古墳は、4世紀から6世紀にかけて築造された県下を代表する古墳で、昭和59年11月29日に史跡に指定されました。
この6基の古墳は当地域における歴代の首長墓であり、讃岐の古代史解明に重要であるばかりでなく、中央や先進地域との緊密な交流を示す貴重な遺跡です。

王墓山古墳(6世紀)
王墓山古墳は有岡地区中心の小丘陵上に築かれた前方後円墳で、速くから注目されており、大正時代には貴重な史跡として報告されています。
この古墳は昭和57年に発掘調査され、石屋形を持つ横穴式石室の内部から、豪華な副葬品が多数発見されましたが、中でも金銅製冠帽や銀象嵌された刀剣・金銅製馬具などは、古墳時代の工芸技術の高さを知るばかりでなく、大和政権の勢力伝播、つまり中央と地方豪族の関係や当時の社会情勢を知る上で極めて貴重な資料なのです。
横穴式石室はその上部が後円部の一部と共に失われていましたが、昭和61年度から平成3年度までの6年間にわたる整備事業によって、築造当時の状態に復元されました。
また整備事業の際に、この丘陵上に築かれた弥生時代の集団墓も確認されましたが、古代の墓制を研究する上で重要視されており、古墳と共に整備されています。
善通寺市 平成4年度

 

説明板の前から県道を挟んで。

墳丘の背後は左が筆ノ山(295m)、右が香色山(157m)

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その名が示すとおりの堂々たる姿。

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後円部裾にあった説明板。

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史跡 王墓山古墳
昭和59年11月29日指定 
昭和61年度~平成3年度:保存整備事業実施
王墓山古墳では昭和57年度に発掘調査が行われ、古墳時代後期(6世紀前半)に造られた前方後円墳であることが明らかになりました。
規模
全長 46m・後円部直径 28m・後円部高さ 推定6m・前方部幅 28m・前方部高さ 推定5m

埋葬施設は横穴式石室で、玄室内には遺体を納める石屋形が造られていましたが、石屋形は九州に多く見られるもので、四国では初めての発見でした。
発掘調査によって出土した副葬品は金銅製冠帽・首飾り・耳環などの装飾品、馬具類、須恵器・土師器等の土器類など質量ともに素晴らしいものです。
特に金銅製冠帽は全国でも数少ない貴重品で、大和政権から権力の象徴として贈られたものと考えられています。
横穴式石室を埋葬施設とする前方後円墳は現在県下唯一であり、当時の有力豪族がこの付近にいたことを示しています。
また、石屋形や豊富な副葬品から、この豪族が活発に各地を交流していたことがわかります。
1992年3月31日 文化庁・香川県教育委員会・善通寺市教育委員会

 

横穴式石室へのプロムナード。

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中には入れませんが、手をかざすと灯りがつきます。

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柵越しに覗くと、玄門にも扉でした。

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ズームすると左にかすかに石屋形が。

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テラス上に戻って。

左に前方部方向、奥の山は我拝師山(がはいしさん:481m)です。

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墳丘に上がって前方部から後円部方向を。奥には讃岐富士の飯野山(422m)です。

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後円部墳頂から同方向(北東)を。左奥は青ノ山です。

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後円部墳頂から東方向の奥には大麻山(616m)

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後円部から前方部を振り返って。

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墳丘の北側には左から、我拝師山・筆ノ山・香色山。

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大和三山もそうですが、これくらいの標高200~500mの独立峰がポコポコある様子が、古代人に好んだ風景であるように実感します。(地質的実利があるのかも知れませんが)

 

前方部左裾から後円部方向。

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前方部裾から同方向。

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後円部左裾から。香色山(左)と讃岐富士(右)

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後円部の先端側の裾には弥生時代の墓が数多く出土していました。ここは弥生時代から古墳時代に連続する遺跡でした。

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見学用のレプリカが2基。

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その説明板。

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弥生時代の集団墓 3世紀頃
昭和62年度に古墳周辺の発掘調査を行い、王墓山古墳が造られる以前の箱式石棺や竪穴式石室が15基発見されました。
これらのうち13号墓と14号墓は山側に溝が掘られており、小規模な墳丘を持っていたようです。時代はいずれも弥生時代の終り頃(3世紀頃)のものと考えられます。
竪穴式石室:4号墓、7号墓
箱式石棺:2号墓、5号墓、6号墓、10号墓、12~15号墓
土壙墓:1号墓、3号墓、8号墓、9号墓、11号墓
ここで発見された多くの様々な形をした墓は、古墳時代以前に少しずつ力を持ちはじめた首長がいたことを示しており、有力者の墓が古墳へと発展していく過程を知る上で大変貴重な遺跡です。
現在、遺構保護のため、発見された集団墓は全て埋め戻してありますが、その位置や大きさがわかるように盛り土をして表示し、4号墓と12号墓はその様子を地表に再現してあります。
1992年3月31日 文化庁 香川県教育委員会 善通寺市教育委員会

 

被葬者は、周囲の山から見守れているような雰囲気が気に入って、ここに墳丘を築いたのではと実感しました。

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