墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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今城塚古代歴史館 大阪府高槻市郡家新町

宮内庁により継体天皇陵と治定されている太田茶臼山古墳を参拝した後は、真の継体陵と言われている今城塚古墳を見学。 

まずは墳丘北側にある、高槻市立今城塚古代歴史館を訪ねた。 

 

古代歴史館は広い駐車場を完備。

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まずは常設展へ。観覧料は無料。

常設展示/高槻市ホームページ

最初に、この地域・三島の古墳時代前史の展示、次に三島と初期ヤマト王権、さらに倭の五王と三島、というコーナーがあり、いよいよ「今城塚古墳の実像」に迫る。

古墳の築造にスポットを当てた解説が非常に面白かった。

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古墳の設計
今城塚は、奈佐原丘陵の南に広がる富田台地の中央につくられた6世紀前半の前方後円墳です。二重の濠に囲まれた長さ181mの墳丘は、前方部が2段、後円部が3段に築かれ、くびれ部の両側に造出をそなえていました。濠をふくめた全長は354mの規模を誇り、この時期につくられたものとしては日本最大の古墳です。
今城塚のように巨大な古墳は「寿陵」といって、生前から形や大きさを決め、墓所を定めてつくりはじめたと考えられます。淀川右岸にひろがる三島の藍野が選ばれたのは、この地を重視した被葬者の深慮があったからでしょう。実際の古墳づくりは、草木をはらい、地鎮のまつりをおこなって、現地に古墳の設計図をうつすことからはじまりました。土を掘る場所、積む場所が決まると、いよいよ大土木工事が動き出します。

 

土木工事で用いた道具も出土している。人手により使う道具としては、今とは素材が異なっているだけでは。

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葺石を葺く様子。

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サイズは原寸大。右下には排水溝(トンネル)が再現されている。

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ここからは古墳の作り方です。

古墳をつくる1

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土地を区画する
古墳を設計図どおりにつくるには、土地を正確に測量し、区割りをする必要があります。古墳時代の長さの単位は、人が両手を広げた長さ「一尋(ひとひろ)」(約160㎝)が使われたといわれます。古墳づくりの技術者たちは、一尋の長さを記したまっすぐな棒やしるしを付けた縄を持ち、杭を打って地面に古墳の形をあらわしたのでしょう。

 

古墳をつくる2

今城塚は、土塊積みで造られています。

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土を積む
盛土を観察すると、一遍40㎝、厚さ10㎝ほどのうろこ状の小さな単位がみえます。この一つ一つは、一度に積んだ土の塊で、約20kgの重さがあります。濠になる部分で掘り出した土は、塊のままモッコに入れて墳丘に運ばれました。

 

古墳をつくる3

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盛土の工夫
今城塚の墳丘には盛土を堅固にするための工夫のあとがみえます。後円部には川原石を積み上げた石積(墳丘内石積)が埋め込まれ、その下部からテラスに向けて石組の排水溝がつながっています。これらは、墳丘にしみこんだ雨水をいち早く外に排出するためにつくられたものです。

 

古墳をつくる4

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葺石を葺く
古墳の斜面に敷き詰めた石を葺石といいます。葺石により、墳丘の盛土が崩れにくくなり、外観も立派にみえました。
今城塚の葺石は、古墳から1㎞東を流れる芥川の川原石が使われています。

 

墳丘に並べられていた円筒埴輪。

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2本のマストを持つ船が描かれています。淀川の舟運を掌握していた証でしょう。 

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その後ろには、埴輪と石棺が‼

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 奥の壁には、100分の1模型。

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埴輪まで細かく再現。

今城塚古墳では、墳丘左側、くびれ部に相対する内堤の外側に、形象埴輪による一大スペクタクルが再現されていました。

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多様な埴輪が勢ぞろい。

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鷹匠や武人。後ろには盾。

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堂々とした力士。 

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精巧な家形埴輪。

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 ぶれてしまいましたが、二階の下層側屋根の端にはぐるりを魚や鳥が描かれています。

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家々の屋根には、見事な千木や鰹木がある。

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儀礼を執り行う巫女たち。

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壮観です。

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背面から観察することもできました。

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埋葬施設の石材は破片の形で発掘されていますが、異なる種類の石材で作られた石棺が3つ納められていたとのことです(阿蘇の馬門石、兵庫の竜山石、大阪・奈良の二上山白石。

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どれもかなり大きい。

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上記の棺を覗き込むと、中の人も。

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復元された甲冑一式も展示。ハプスブルグも顔負けでは。

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継体大王の生涯がよくわかるパネルもあった。

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継体大王の生涯

生誕
男大迹王(継体大王)は近江国高島郡の三尾(滋賀県高島市)で生まれました。父の彦主人王が早くに亡くなったため、母・振媛の故郷である越国の高向(福井県坂井市)で育てられました。

大王に擁立
後継者のいない武烈大王の死によって、王統の断絶という事態に直面したヤマト王権は、大伴金村大連らが中心となって、応神大王の5世の孫を称する男大迹王を擁立します。
男大迹王は仁賢大王の娘・手白香皇女と結婚し、507年に大王となります。

王権を支えた勢力
即位後の継体は、約20年間にわたって、淀川流域の樟葉(大阪府枚方市)、筒城(京都府綴喜郡)、弟国(同乙訓郡)に宮を営みました。継体は、水運の大動脈である淀川を王権の基軸に据え、父母の緑地である近江や越をはじめとして、尾張や河内、大和の豪族から妃をめとることで勢力範囲を広げ、満を持して大和の磐余玉穂(奈良県桜井市)に宮を移しました。

磐井との戦い(527年~528年)
朝鮮半島で伽耶をめぐって百済や新羅が争うなか、継体は527年に朝鮮半島へ出兵します。海路を進む軍隊が九州北部にさしかかった時、筑紫君磐井が新羅と組んで進軍を妨害し、朝鮮半島への海路を断ってしまいます。これに対して、ヤマト王権は大将軍物部麁鹿火らを派遣して磐井を討ち取り、子の葛子には土地を献上させ、王権に直属する屯倉としました。こうして、有力な地方豪族を力で圧倒したヤマト王権は、国内の支配体制を強化していきます。

三嶋之藍陵 531年
531年、継体は病のため、磐余玉穂宮で亡くなりました。その没年を日本書紀は82歳、古事記は43歳としています。ただ、どちらの史料も大王が藍野陵に葬られたと記していて、のちの摂津三島の藍野の地に陵墓を築いたことは間違いありません。継体が勢力基盤とした琵琶湖・淀川地域のなかでも、とくに淀川北岸の三島を選んだのは、死後も安らかにまもられる場所としてこの地を重視していたからに他なりません。

 

継体大王が幼少期を過ごした福井へは2年前に墳行した。

 (画像はgoogle photoなので、PCでしか見られません)