小坂レールパークで”動く”ブルートレインを楽しんだ後は、明治百年通りを歩いて500mほど北にある、小坂鉱山事務所を見学した。
木造3階、ルネッサンス風の華麗な建物。
明治38年(1905)に建てられた国重要文化財。
1977年まで小坂川の東側の精錬所で事務所として使われてきたが、工場増築に伴い解体され、旧小坂鉱山病院跡のこの地に、完成当時の状態に復元して移転された(竣工は2000年)
屋根上の3つのドーマーウィンドーと、外観に連続する三角形のペディメント付き窓が、ルネッサンス風の基調となっているのだそう。
中央に目立つ「バルコニー付きポーチ」はイスラム風となっている。
ポーチの下側、玄関前の天井。
入館料は300円。他の館とのセット券もある。
はいってまず目に入るのは見事な螺旋階段。
階段を上がると中庭のある回廊。
大きくガラス面がとられ、明るい廊下。
その周囲に、いくつもの展示室があった。
ガラス窓の回廊は3階部分にも一部巡る。
小坂鉱山は、文久2年(1861)に小坂村の小林与作が銀鉱山を発見したことに始まり、慶応3年(1867)に盛岡藩が藩営として開発を進めようとしたが戊辰戦争で中断、明治維新後に官営となり、旧盛岡藩士で岩倉遣欧使節団に参加した大島高任(たかとう)とドイツから招かれたクルト・ネットーが導入した近代的精錬法により明治14年には銀山日本一の生産量となっている。
クルト・ネットーは26歳で来日。小坂鉱山での勤務後は東大教授にもなり、12年ほど日本に滞在した。
クルト・ネットーは、1847年にドイツ東部に位置する現在のザクセン州フライベルク市に生まれました。フライベルク鉱山大学を優秀な成績で卒業し、明治6年(1873)に鉱山兼製鉱技師として日本政府に招かれた26歳のネットーは12月に雪深い小坂鉱山に赴任します。
その仕事ぶりは勤勉で、日夜新精錬法の研究に励み、ドイツ式の製錬法を採用、小坂鉱山は近代化の道を歩み始め、ネットーの業績は高く評価されたのです。
小坂鉱山が南部家の私営となると東京大学理学部採鉱冶金学科の初代教授に赴任、冶金学者や技術者を育て、日本の金属鉱山の、ひいては日本経済の発展に大きく貢献した。
ネットーは日本文化に魅せられた人でもあり、多くのスケッチを残し、浮世絵を収集、帰国後に本も出版している。
小坂鉱山は「黒鉱自溶製錬」の成功で、明治40年(1907)に鉱産額全国一位を記録し、足尾銅山、別子銅山とともに日本三大銅山のひとつとなる。
当時の所長・久原房之介は小坂に理想社会を建設しようと考え、明治30年代から明治末にかけて都市計画を急速に進め、電気利用、上水道完備、電気鉄道、総合病院、東北一の劇場など、文明開化の最先端を行く街をつくったのだそうだ。
久原房之介は明治24年から36年まで、叔父の経営する藤田組の社員として小坂鉱山に赴任、その後に昭和38年に茨城県の赤沢鉱山を買収して日立銅山と改称、その後の活躍は最近日立を訪ねて知った。
東京から小坂へ赴任する親子の(子どもの)心情を、客車の車窓風景で再現したコーナーがあったが、とても面白かった。
3階に上がると「所長室」があった。
3階の廊下から2階の中庭を。
中央には下から続く螺旋階段が。
一筆書きのような手すりが美しい。
そこにある窓から。「バルコニー付きポーチ」の屋根の上側になる。
2階を貫く螺旋階段。
2階の窓から見た花がきれいだった。
当館ではモダン衣装(ドレス)のレンタルを行っている。入館料とは別に30分で720円(3日前までに予約)が必要だが100着以上が揃えられているとのこと。若い方はぜひ。