この日の最後に訪ねた見学施設は尾去沢(おさりざわ)鉱山。写真多めです(49枚)
坑道入口への道沿いから見えたのは、選鉱場や製錬場の跡。
さらに道路を上がっていくと、「鉱山歴史の坑道」の看板が掲げられた入口があった。左の建物にて入館料一般1000円を納める。
http://www.osarizawa.jp/course/ishikiri.php
駐車場は550台を収容するが、他には数台しか見当たらなかった。
標準コースは1.1㎞・徒歩30分で、その先まで回る特別コースは計1.7㎞・45分となる。
どこまで行くかは入ってみて決めることにした。
いざ坑道内へ。上部には「石切沢通洞坑」の表示。
トンネルからのレールの先には、機関車とトロッコが自然な感じで展示される。
坑道内の気温は13度。一枚羽織って中へ。
尾去沢鉱山の歴史は和銅元年からと伝えられるそうだが江戸時代には南部藩が経営し、明治時代に岩崎家に鉱業権が渡ってからは昭和53年(1978)に銅価格低迷と鉱石枯渇で閉山するまで約90年間、三菱の銅山だった。
コンクリアーチから木組みになった。
さらに剥き出しの岩肌に。ついつい速足になった。
ところどころに閉ざされた分岐がある。
坑道壁には黄鉄鉱(?)が露頭するところも。
特別コースと交差する箇所あたりで。せっかくなので行ってみることに。
ここからが特別コース。
奥が見えない分岐も。
ルート上のその先で、空間が拡がった。
見上げると岩壁の間に何本もの梁が。
上へも下へも、先が見えない「裂け目」が続いていた。
鉱脈を掘り除いた跡だった。
そんな丸太一本で意味があるのでしょうか…
前にも後ろにも、他に人はいなかった。
坑道を再利用した場所も。
古酒を醸成していた。
その対面には神社も。
軌道を復元したら、リアルに「センター・オブ・ジ・アース」
最奥部に休憩所が復元されていた。
中の様子。マネキンがハンサムなところが、リアル過ぎなくてグッド?
その先の事務所。標語もあって実際に使われていた感が滲み出していた。
事務所前は広くなっている。
向かいのベンチで休む人もハンサム。
ここがコースの折り返し点、入口から一番遠い場所になっていた。
その背後には火薬を扱う窓口。
出口まで約1kmを歩きだす。
途中にあった竪坑エレベータ。標語が怖い。
出口はまだまだ先。
再び上下への深い採掘跡(上方向)
ここも、丸太が取れたら自分も挟まってしまいそうに思えた。
坑内修理場エリア。ここを過ぎると標準コースに合流する。
その先の大部屋は展示室に。
坑内休息所の実際の写真(カラー)も。
江戸期以前の解説パネル。
尾去沢鉱山の歴史は古く、和銅元年(708)に発見されたと伝えられている。このことは「大森親山獅子大権現御伝記」(天保7年に旧記を伝写したもの)中に伝説として記されている。
天平感宝年間(749年)には長坂金山ー尾去沢鉱山赤沢地内ーが発見され、その産金が調停に献上して、奈良東大寺の大仏の造営に使用されたと伝えられている。このことは、南部藩士、伊藤嘉次右衛祐清の手記である「祐清私記」の中の「鹿角金山はじまり之事」に伝説として記されている。また、平安時代の後期(1100年)における奥羽藤原三代の繁栄には尾去沢の産金が大きな貢献をしたと伝えられている。安土桃山時代(1590年)に南部氏の所領となる。
その先のルートには、江戸期の南部藩奉行所も再現されていた。
笊の小銭は見学者が入れたもの。
坑道の様子も。
四つん這いにならないと進めない大きさのものも。過酷な環境。
その先でエスカレーターが出現したときには感激があった。
最後にみやげものショップを通って出口になる。砂金体験コーナーも併設されていた。
坑道へ入ってから、初めて他の見学者に遭遇した。
駐車場の近くには、鹿角市鉱山歴史館もあった(入館無料)
芸術作品のような坑道模型。
山の表面と、選鉱場・製錬場のジオラマ。
実際の航空写真。
鉱脈を表した断面図も。赤い部分の鉱脈それぞれに、〇〇樋(→かねへん)と名前が付けられていた。