多摩川台公園には古墳について学べる大田区の展示施設がある。
東急東横線の多摩川駅から150mほどの近さ。
直接来る場合はこちらの公園入口の門が近い。
門の右に立派な展示施設があった。入場無料の展示施設。
室内に入ると実物大(部分)の墳丘・石室入口模型がある。
地元の古墳ではなく、6世紀の関東で築造された横穴式石室を持つ全長60mの前方後円墳の後円部の形を比較のために復元したようだが、どこがモデルになっているかはわからなかった。
入口左側に前方部が続いていたという設定。
墳丘に向かうように古代人の人形が5体。1/2縮小ぐらいの大きさ。
入口の先はガラスケースの展示室。
中央に棺があって周囲は荏原台古墳群のパネル解説。埴輪や副葬品のレプリカも展示されている。
ガラスケースの中に、衣装や副葬品がわかるように置かれている。
人形だが実物大なので”なまなましさ”が感じられた。
室内の展示は荏原台古墳群の宝莱山古墳、亀甲山古墳、浅間神社古墳、多摩川台古墳群、鵜木大塚古墳、観音塚古墳(消滅)などの解説や出土物。
宝莱山古墳(西岡37号墳)は、多摩川下流域で最古(4世紀前半)・最大(全長100m)の前方後円墳だったが、昭和期の宅地開発と土取りで後円部のほとんどが削られたが、その際に埋葬施設の粘土槨が発見され、鏡(四獣鏡)や紡錘車形碧玉製品、大刀や槍、勾玉・管玉・丸玉などの装身具が出土した。
等高線があるところが残っている墳丘。
こちらは前回の亀甲山古墳(西岡46号墳)の残存部分。後円部の欠けた部分は公園になっているので、いつか復元していただきたい。
浅間神社古墳の平面図。後円部に社殿が載り、少し斜めになった前方部は線路で削られた。
その浅間神社古墳から出土している馬形埴輪と鹿形埴輪のレプリカ。
こちらは浅間神社古墳の男子像。こめかみの辺りに美豆良(みずら)の剥離痕がある。
美豆良の結い方はわかりやすかった。
2014年に土浦での展示で、武者塚古墳から出土した実物の美豆良の一部を拝見した。
「武者塚古墳とその時代」展 上高津貝塚ふるさと歴史の広場(考古資料館) 茨城県土浦市 - 墳丘からの眺め
女子の埴輪に見られる島田髷の結い方も示されていた。
鵜木大塚古墳からは大刀や大刀形埴輪、円筒埴輪が出ている。
こちらは昨年訪ねたばかり。
6世紀の田園調布には埴輪の工房、土師器の工房と窯から成る生産施設があった。
埴輪製作所のミニジオラマ。
観音塚古墳は宝莱山古墳の北西約150mにあったが宅地造成で消滅した。横穴式石室を持つ、全長41m、高さ2.7m、後円部・前方部幅13m前方後円墳だった。
照善寺が所蔵する端正な顔の男子埴輪の写真があるが、墳丘上には他に馬形埴輪、大刀形埴輪、円筒埴輪が豪華に並んでいたと考えられるそうだ。
副葬品も多く出ている。
こちらは展示館の目の前にある多摩川台古墳群のコーナー。
5号墳出土の大刀や馬の轡、勾玉・小玉類。
9号墳出土の須恵器や金環など。須恵器は東海地方の生産に限られる形をしているとあった。
石室風展示室を出ると、大きな地図パネルがあり、荏原台古墳群の各位置が示されるようになっていた。
こちらは畿内の古墳との大きさ比較。右下が亀甲山古墳だが、上段左から2番目の大仙古墳(仁徳天皇陵)との差は非常に大きい。
さらに「武蔵国造の乱」のパネル説明も。
その1:小杵(おき)と使主(おみ)の対立
時は、安閑天皇元年(534)、6世紀の初めの頃のことである。武蔵国では首長になる権利をいくつかの勢力の間で持ち回りしながら、代々の首長が引き継いできた。しかし引き継ぎをめぐり、南武蔵の小杵と北武蔵の使主の対立が起きた。その2:同名を結ぶ小杵と小熊(おぐま)
ずるがしこく、心が高慢な小杵は、すでに上毛野国との関係を強めていた。そして、ひそかに上毛野君小熊に援助を求め、使主を倒そうともくろんだ。その3:使主、大和政権に助けを求める
しかし、これに気付いた使主は、自ら大和政権の朝廷に出向き、助けを願い出た。こうしてたんなる武蔵国の内紛から、大和政権と東国の強国上毛野国との対立という大きな争いへと発展することとなる。
笠原直使主の本拠地は埼玉県鴻巣市笠原と考えられ、この地は埼玉古墳群の南に位置している。使主の墓はこの古墳群の中の二子山古墳ではないかという説もある。その4:使主の勝利と屯倉の献上
国家統一を成し遂げようとしていた大和政権は、小杵を打ち倒し、使主を国造とした。喜んだ使主は、4ヶ所を屯倉として大和政権に献上、小杵の勢力に大きな打撃を与えた。
日本書紀巻十六・安閑天皇元年の条に記されている。
使主が献上した屯倉は、横渟(よこぬ・よこね:多摩横山と埼玉県横見郡の2説あり)、橘花(たちばな:川崎市と横浜市港北区の一部)、多氷(たひ:多末たまの書き誤りといわれ、東京都多摩地域とされる)、倉樔(くらす:横浜市南部)
地図におとしてあって分かりやすい。
小杵、使主、小熊の勢力圏と屯倉の位置
使主が大和政権に献上した屯倉のうち、「橘花」「多氷(多末)」「倉樔」の3ヶ所は小杵の本拠地と考えられる。
「横渟」は、多摩横山説なら小杵の本拠地にあたり、埼玉県横見郡説であれば南武蔵と北武蔵のほぼ中間に設置されたことになり、両地域を見張る軍事的・政治的役割を果たす屯倉と考えられる。
なお、安閑紀の最後に屯倉設置の記事があり、その中に上毛野国緑野屯倉の名が出てくる。「緑野」は、この乱に加わった上毛野国に対する懲罰として、その領地に設置され、大和政権の国家統一への戦略拠点として利用されたと考えられる。
川崎市の千年の丘にある橘樹郡衙跡は、昨年川崎市主催のツアーで訪ねた。
7世紀後半から8世紀に造営された郡衙には正倉も設けられ、奈良時代に拡充されたが平安期の9世紀中頃には終焉したそうだ。
「史跡めぐり 古代の橘樹をゆく」ツアー・1 - 墳丘からの眺め
同じく川崎市、荏原台古墳群と多摩川を隔てた対岸にあった前方後円墳、白山古墳(4世紀後半・87m)や観音松古墳(4世紀末・86m)も、小杵につながる南武蔵の勢力だったのだろう。
白山古墳跡 夢見ヶ崎・加瀬台古墳群探訪その6 神奈川県川崎市幸区南加瀬 - 墳丘からの眺め
南武蔵と上毛野国とが密接な関係にあったことは、古墳の副葬品が示している。
上毛野国と荏原(台)古墳群と結びつける副葬品
滑石製模造品
滑石製模造品は、武器や生活用具をまねて滑石を材料に作られた、マツリなどで使われる道具と考えられている。荏原(台)古墳群の野毛大塚古墳出土のセットは上毛野(群馬県)の白石稲荷山古墳のセットとよく似ており、上毛野以外の関東ではみられない飲食用具の模造品も含まれている。そのため、上毛野で作られ、南武蔵に持ち込まれたのではないかと考えられる。甲冑
野毛大塚古墳から武蔵では最古とされる甲冑が出土している。これも上毛野の首長の元にあった甲冑が分け与えられたと考えられる。鈴鏡
6世紀前半を盛りに、上毛野を中心に流行したと考えられる鈴鏡が、荏原(台)古墳群の御岳山古墳と西岡第28号墳でも出土している。これら両地域は鈴鏡を使ってマツリを行う共通の文化圏としてとらえられるのではないだろうか。これらの資料は、野毛大塚古墳が築造された5世紀前半頃、南武蔵の首長が、当時先進的であった上毛野国の政治勢力下に入ったことを暗示している。その結果、①鈴鏡を用いた祭祀(マツリ)が荏原(台)古墳群でも行われたり、②武蔵国造の継承権の争いに上毛野君が介入した時間が起ったと考えられる。
展示館見学後は目の前の多摩川台古墳群へ向かった。
つづく。