6月4日、川崎市教育委員会主催による橘樹(たちばな)官衙(役所関連施設)の跡を歩くツアーに参加した。
橘樹官衙跡は、橘樹郡衙跡(たちばなぐんが:古代武蔵国に所在した 21郡の1つである橘樹郡の役所跡)と影向寺遺跡(ようごうじ:橘樹郡衙跡西側に隣接して7世紀後半に創建された古代寺院)から成る、川崎市高津区千年の伊勢山台の遺跡群。
郡衙は古代律令制度によって設けられた租税徴収のための役所で、郡司が政務にあたる正殿・脇殿のほか、田租・正税出挙稲を保管する正倉、宿泊用の建築などから構成される。橘樹衙跡は1996年の宅地造成工事で正倉の掘立柱跡が発見され、その後の調査で伊勢山台に郡衙に関連する建物が広く分布することが確認され、2015年3月に国史跡に指定された(川崎市で初)
集合場所は高津区役所橘出張所で武蔵溝ノ口駅からバス。
余裕を持って家を出たはずが駅を間違えたり(武蔵溝ノ口⇔武蔵小杉)、バス乗り場に迷ったり、バスが途中で違う方向へ向かったりして、少し遅れて到着。
同じ路線番号でも行先が異なる場合になることを知ったが、スマホのマップに助けられた。
到着時、すでに解説が始まっていた。
一行は裏手の道を出発。川崎市立橘小学校の校庭に沿って歩く。すぐに台地の端が目の前に。
こちらの斜面には横穴墓もあるそう。が冬季でないと目視できないとのこと。
小学校のグランドでは赤白のかっこいいユニフォームの野球少年が練習中。
住宅の合間から顔をのぞかせる台地は伊勢山台。多摩丘陵が延びる舌状台地で台地下の沖積低地との比高差は約30mになる。
台地に上る前に解説を受ける。
このあたりは北浦と呼ばれた矢上川流域だったそうで、古代の人々は税である米を納めるために舟で運んだ米俵をこのあたりで降ろし、こんどは背負って台地上の正倉院(下の写真の中央の鉄塔近辺)を目指したのではないか、というお話があった。
荷物を背負ったつもりで歩き出す一行。
昔の痕跡を残すようなゆるいカーブの道を行くと、登り口があった。
これからの季節は注意が必要。白っぽい服装がよいようです。
上っている途中の右手の風景。住宅が写らないよう撮ってみると美しい谷戸の風景。
林を抜けると、切り通しのような道に。
進んでいくと見晴らしのよい場所に出た。
下の地図はいただいた資料より。
色のついた四角が橘樹郡衙の正倉院遺構が見つかった場所で、現在地は中央やや左の「正倉院を区画する溝のコーナー」が確認された場所になる。
なお、赤い四角の列と青い四角の列は並んでいる方位が異なる(青い方が古い)
赤い印の建物は大宝律令後の築造で、柱列も建物の並びも東西南北の方位に沿っている。その傾向(大宝律令以前は方位軸が揃わない)は各地の官衙跡でも見られるそうだ。
正面には武蔵小杉のビル群を望む。
視線を左に動かすと遠くに緑の帯が見える。
中央の富士通ビルの後ろ、左右に広がる緑の帯は多摩川台。多摩川の向こう岸の東京都で、亀甲山古墳や宝莱山古墳などの大形前方後円墳がある。
古墳探訪を始めたころのエントリ。
国史跡・亀甲山古墳 宝莱山古墳 野毛大塚古墳 東京都大田区 - 墳丘からの眺め
さきほど台地下から見上げた鉄塔。その麓からも建物跡がみつかっている。
詳しい説明を受ける一行。
その背後。この方向に正倉が5棟連なっていた。
正倉はこのような建物。
深谷市に復元建物があったとは。再訪しないと…
台地上の宅地は遺跡が壊れないように、地表面を1m程度かさ上げしている。
住宅の間を抜けて公園に出た。
つづく。