墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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鶴山古墳 群馬県太田市鳥山上町

二ツ山古墳群見学後は南東へ1.7kmの鶴山古墳へ。 

そのちょうど中間に「上野国新田郡庁跡」があった。

 

南端の道路際に石碑と説明板が。

国指定史跡 上野国新田郡庁跡
所在地:太田市天良町7-1ほか
指定年月日:平成20年(2008)7月28日
上野国新田郡庁跡は、古代新田郡における郡衙(郡家:ぐうけ)の中枢施設です。この施設は、以前から礎石建物跡や炭化米の出土が知られていた天良七堂遺跡内に存在します。上野国内における郡衙の具体的な施設を記した「上野国交替実録帳」によれば、新田郡庁は東西南北に「長屋」を配置することが記されており、それに合致する長大な掘立柱建物跡が発掘調査により確認されました。郡庁は全国的にも例のない規模で、一辺約90m四方(通常の大きさは50m四方)に及び、四辺には長さ約50mの長大な建物が配置されていました。
新田郡庁の時期は、出土遺物により7世紀後半から9世紀前半にかけてのものと考えられます。また、郡庁はこれまでの調査で、ほぼ同じ場所で造り替えられ、五段階の変遷をたどることがわかってきました。
新田郡庁跡の周辺ですが、南側には古代の東山道駅路が通過し、東側には寺井廃寺、西側には瓦葺の基壇建物跡が確認された入谷遺跡や堀に囲まれた区画の中に大型の掘立柱建物跡が確認された笠松遺跡とった古代の重要遺跡が存在します。
(後略)平成26年(2014)3月20日 太田市教育委員会

 

看板の前の県道「足利伊勢崎線」は古代の東山道に沿う?(東・足利方向)

 

道路を渡ると道祖神石碑(グーグルマップに印あり)

 

そこから南へは古道の面影。

 

グーグルマップに「新田堀」と記されたあたりを通る(振り返って)

 

東に歩いて蛇川を渡るあたりで鶴山古墳の墳丘が見えてきた(中央)

 

このときは円墳だと思い込んでいたが、全長100m級の前方後円墳だった。

 

農道から近づいて墳丘に上がらせていただいた。

 

後円部墳頂から南方向。

 

北側。

 

北東側。

 

北西側、赤城山の方向。

 

後円部南東側裾に説明板があったが、かなり読みにくくなっていた。

群馬県指定史跡 鶴山古墳
指定:昭和26年10月5日
所在地:太田市大字鳥山字八幡
太田市北西部の平地に位置する古墳の中核をなす古墳で、竪穴式石室を持つ前方後円墳である。墳丘の全長は105mで、前方部は低く長い。高さは後円部8m、前方部3.5mである。周堀は墳丘にそい一周していると推定される。石室は後円部墳頂にあり扁平な割石で囲まれ東西に長い長方形で、長さ2.8m、幅85㎝、深さ60㎝である。昭和23年12月群馬師範(現・群馬大学)史学研究室により発掘調査が行われた。
石室内の副葬品は甲冑(甲三領・冑二領)、剣三振、大刀五振、鏃、刀子、鉾、鎌、斧等の鉄製品が多く、又、刀子、鎌、斧の石製模造品が多量に出土している。他の出土品には、盾の部分品とみられる隅金具、貝殻、漆等があり珍しいものである。石室外から鉾、鏃等が発見されているが、埴輪、葺石は認められない。時期は5世紀後半頃と推定され、古墳時代中頃の特徴をよく示している古墳である。
昭和55年3月 群馬県教育委員会 太田市教育委員会

 

引いた位置で説明板と後円部。

 

かつては後円部から南西のこちら側に向かって前方部が伸びていたようだ。

下記の「太田市の古墳」の実測図を後で見て、やっと位置関係が理解できた。

https://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/kankoubutu/files/otashinokofun.pamph.pdf

上記には全長95mとあるが、「群馬県古墳総覧(2017)」とみると全長102m(前方後円墳)で竪穴系(石槨)を持つとあった。

 

東側から。左の高まりが前方部か。

 

グーグルアースを凝視していれば、後円部周溝の円形ラインや右斜め下に伸びる前方部跡が立ち現れるかも?