墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

宮中野古墳群・天狗党の墓など 茨城県鹿嶋市宮中

前回の大塚古墳の150mほど南東側。

大塚古墳前のBOXにていただいた解説シートの宮中野古墳群分布図によれば、ここに「湮滅または未確認」の前方後円墳・107号墳が、後円部を右に印がついている。

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107号墳(跡?)の前方部先端を西側から。

耕されずに草むらが盛り上がっているのは下に土盛りが残っているから?

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上記から左(北)を向いて浄水場を。

かつては20基ほどが残っていたようだが、今でも5基ほどが残っているようだ。

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台地の先端、南西側に雷神山古墳(103号墳:一部削平されているが現存)の印があるので行ってみたが、深い草藪で確認できず。

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そこから台地下へ続く道があった。台地の比高差は30mほどもある。

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かなり降りて、樹木が切れたところで見えた北浦。

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そこから南方向。左が宮中古墳群のある台地。

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300mほど南へ歩いて振り返って。

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そのあたりから東を見ると、入り江のような地形がみられた。

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パノラマで。

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上記の左側の台地上に「お伊勢山古墳」のピンが立つ。

台地下側からのアプローチは難しそうだった。

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道の脇に「荒塚」の石碑。

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その背後、おそらく最も高い所の木々がお伊勢山古墳上に立っているのではないかと推察した。(左に荒塚)

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その西に台地上に続く道があった。

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夫婦塚古墳と同じタイプの解説板が立っていた。

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天狗党の墓
江戸時代の末、各地で尊王攘夷運動が起こり、水戸藩では諸生派(佐幕派)と天狗党といわれた勤皇派が対立しました。1864年3月、天狗党は攘夷を掲げて筑波山で挙兵しましたが、幕府軍から追討されました。9月に天狗党に一派は鹿島にあらわれましたが、大船津で追討軍との戦いとなり敗れました。捕縛されて打首になった23名の亡骸は、大掾辺田の馬捨て場に捨てられました。
明治になって有志により「殉難諸氏乃墓」の石碑が建てられ、現在も大船津に皆さんの手による清掃活動などによって守られています。榎の木の下の墓は、1990年に市の史跡に指定されています。

2015年10月1日 鹿嶋神の道運営委員会

 

鹿嶋市教育委員会による説明板も。 

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史跡 天狗党の墓
元治元年(1864)大平組と称する天狗党の一隊800人余りが宮中へ屯集した。この一隊は、幕府追討軍に追われ鹿島へ集まったもので、旅館や寺院などに宿陣したが、川股茂七郎以下80人程を殿軍として、大船津から延方へと渡っていった。この時、川股勢と幕府軍との間に砲戦があり、大船津は兵火に焼かれる。幕府軍は江戸から府中(石岡市)・玉造・鉾田を経て鹿島へ到着し残党を探索した。捕縛された23人は下生の石橋外で打ち首にされ、大掾辺田(だいじょうべた)の馬捨て場に埋められた。明治になり斉藤俊 鹿島郡初代郡長によって「殉難諸士乃墓」が建てられている。
え:えのきの下にい天狗のお墓(鹿嶋市文化財愛護かるたより)
昭和55年7月14日 市指定
鹿嶋市教育委員会