墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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大塚古墳(勅使塚古墳) 茨城県鹿嶋市宮中

前回の小町塚古墳から100mほど南にもう1基。

やはり古墳をよけるように浄水場をつくったのでしょう。

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西側から見た墳丘。

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南側から対面すると、墳丘の大きさが実感できた。

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墳名表示板あり。解説シートが入った箱もあったので以下に解説文を。

大塚古墳

宮中野古墳群第114号墳(別名:勅使塚古墳) 

大塚古墳は、帆立貝式古墳で墳丘の大きさは全長約90m、高さ7m、直径約80mの円形墳丘は三段で構築(段築)されており、墳丘裾部から中心部に向けてやや傾斜しています。墳丘の周囲には幅13~14、深さ約90㎝の周溝(周堀)が廻っており、その形は上から見たら”熱気球”のような形をしています。

また、墳丘の西側には周辺の地形より一段高く盛り上げられた幅約25m、長さ約10mの造り出し部があり、遺体や副葬品を安置した埋葬主体部が確認されています。

主体部は、横口式石槨ともいえるような構造で、ベンガラで赤く彩色された雲母片岩の板石で箱式石棺のような石室が造られていました。しかし、どういうわけか石室の板石は引き抜かれ、滅茶苦茶に破壊されて、再び埋め戻されたという状況でした。石室から周溝に向けて墓道が造られ、追葬や儀式が行われた可能性を示唆しています。

昭和57年(1982)の発掘調査では、主体部の中から①金銅製の耳環や官、②金薄板残欠、③金銅板残欠などの装身具類、④銀製弓弭(ゆはず)金具、⑤鉄製銀被弓飾り金具、⑥鉄製刀子柄頭、⑦鉄製円頭柄頭といった武器類、⑧鉸具(かこ)、⑨鞍、⑩鞍飾り、⑪引き手などの馬具類、その他刀子、鉄釘などほとんと破壊された状態で副葬品が見つかっています。なかでも注目されるのは⑦の鉄製円頭柄頭で、レントゲン撮影を行ったところ、渦巻き文や逆心葉(しんよう)文、波状線などの銀象嵌が施されていることが判りました。こうしたことから大塚古墳はかなり位の高い人物の墓であることが想像されます。しかし、残念なことに墓は無残に破壊されており、どこの誰であるかを知る手掛かりは見つかっていません。

 

径80m・全長90mは、野毛大塚古墳の径68m・全長82mをしのぐ規模になる。

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墳頂へ上がりたい気持ちが強まったが、ススキの壁に阻まれた。

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そこから振り返った南側。

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解説シートには付近の古墳の位置が100基以上示されていた。半分近くには現存の印も(はてなフォトライフの不具合が解消されたら載せます)

大塚古墳の東側にも4基の円墳が記されていたので、墳丘前の道を東へ進んでみたが結局深い茂みでひとつも確認できなかった。

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道の先には平地(手前は牧草畑?)が広がっていた。

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その北側の茂みの先に墳丘が並んでいるようだが…

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茂みに沿って端まで行くと、「立入禁止 イノシシのわながあります」の表示が。

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左を向くと、わなが。

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平地の奥の、きれいに整えられた畑には沢山の足跡(イノシシ?)があった。

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来た道を戻って、再び大塚古墳を。

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