墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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峠古墳群(1,2,3号墳 @歴史広場) 岡山県総社市清音三因

前回の道満塚古墳を訪ねた後は、南から伸びる山(福山)の麓をぐるっと西に回り込んで、峠古墳群へ向かった。

徐々に日が傾いて来ているので、見学しやすそうなところを選んだ結果。

 

福山のふもとの西斜面には、総数200基を超える三因(みより)古墳群(6世紀後半~7世紀中頃の古墳時代後期の群衆墳)があり、その支群の一つが67基を数える峠古墳群。

道路拡張に伴って1~3号墳が発掘調査され、移築復元されて歴史広場となっている。

http://www.city.soja.okayama.jp/bunka/kanko/shitei_bunkazai/si/si_33.html

http://www.city.soja.okayama.jp/bunka/kanko/shitei_bunkazai/si/si_31.html

 

平地部(標高10mほど)から県道を上って標高50m、道路から枝道を入るとすぐに歴史公園があった。車を停めて一休みしている方がちらほら見受けられるエリア。


 

清音村時代の説明板。

歴史広場
三因(みより)・峠古墳群
6世紀後半の吉備には、製塩や漁業を営む瀬戸内の島々にも、美作の山間の地にも、多数の小古墳が造られました。
南部の高梁川以東では、200基近くの円墳からなるこの清音村三因千塚が、典型かつ代表的な群集墳の一つとしてよく知られています。その南半の67基からなる支群をとくに峠古墳群と称し、このたび西へ並行移動させたこの4基の古墳も含まれていました。
こうした小古墳の誕生はしだいに生産を伸ばした民衆が、財力を貯え、有力な家父長を中心としる家族集団を形成したことのあらわれです。ちょうどそのころ、大王権を確立しつつあった大和を中心とする政治勢力は、これら家父長層を直接に従えようとして、首長だけでなく彼らにも小古墳の築造を認めはじめたのです。

(左は移築前と、移築後の平面図・全景写真)

平成6年9月 清音村教育委員会

 

歴史広場は枝道と県道とに囲まれている。

 

歴史広場は南西向きに傾斜する斜面。

 

峠1号墳を横から。

 

その説明板。墳丘の築造には人頭大の石が多く使われているそうだ。

市指定史跡 峠1・2・3号墳(歴史広場)
三因・峠1号墳
この古墳は直径約11mの円墳です、棺を置く部屋と、その部屋へ出入りするための開口部を取り付けた横穴式石室という埋葬施設を採用しています。開口部を開け閉めすることで、死者を何度でも埋葬することができます。石室の全長は7.34m、高さは1.55m、奥壁の幅は1.21mで、床面には丸い石が敷かれていました。
この横穴式石室を埋め込むように、石や土で盛り上げられた墳丘が築かれています。とくに石を多用しています。また墳丘のまわりには幅1mあまりの堀がめぐっています。
この古墳が築かれたのは、7世紀前半ごろと考えられます。
平成27年3月 総社市教育委員会

 

3つの中で最も大きい。

 

 蜘蛛の巣を払って、入室させていただいた。

 

開口部からの光が長く届く時間帯だったので、明るい室内。

 

奥壁前から。

 

側壁の様子。凸凹はあるものの、それぞれの石は平滑面を内側に向けている。

 

開口部から右斜め前には3号墳の背中。

 

左斜め前には2号墳の背中。

 

2号墳の前へ回り込んで。左後ろが1号墳。 

 

 

2号墳の説明板。

市指定史跡 峠1・2・3号墳(歴史広場)
三因・峠2号墳
この古墳は1号墳とほぼ同じつくり方と形をしています。直径約9mの円墳で、墳丘をめぐる幅1mほどの堀をともなっています。
横穴式石室は全長6.34m、他朝1.47m、奥壁付近の幅1.04mの置きさです。石室の床面には木棺をのせるための棺台石が、また埋葬後に開口部をふさいだ石が残されています。
石室の奥壁付近からは、埋葬に伴って置かれた須恵器という硬質の焼き物が多く発見されています。
この古墳が築かれたのは7世紀前半のうちても、1号墳よりやや新しいと考えられています。
平成27年3月 総社市教育委員会

 

こちらも蜘蛛の巣を払って中へ。

 

奥壁を。

 

振り返っての開口部。

 

フラッシュで。

 

そこから回り込んで3号墳へ。

正面が3号墳、左上が1号墳、右後ろが2号墳。 

 

3号墳の「第一石室」の説明板。

市指定史跡 峠1・2・3号墳(歴史広場)
三因・峠3号墳(第1石室)
この古墳は、一見、多角形に見える墳丘を築いているようでしたが、多角形か円墳かは明らかになりませんでした。墳丘の端も堀も角ばっているようですが、各辺の長さは異なっていました。墳丘の大きさは約10mで、1号墳、2号墳とほとんど変わりません。また、墳丘を盛るために、人頭大か、それよりも大きな石をたくさん使用し、表面だけを土砂で整えていることも共通しています。
横穴式石室は全長5.55m、高さ1.46m、奥壁付近の幅1.20mで、床面には角ばった石が敷かれていました。また、開口部をふさいだ石も残されていました。
この古墳が築かれたのは、6世紀後半ごろと考えられます。
平成27年3月 総社市教育委員会

 

前出の総社市のサイトにも「多角形墳」の可能性があると書かれている。6世紀末~7世紀初頭に築造され、最終埋葬は7世紀末~8世紀初頭と考えられる、とも記されていた。

 

3号墳の石室へ。

 

奥壁写真は手ブレになってしまった。

 

奥壁前から開口部。

 

フラッシュで。

 

墳丘の左隣に「第二石室」

市指定史跡 峠1・2・3号墳(歴史広場)
三因・峠3号墳(第2石室)
峠3号墳の堀がめぐる位置に築かれています。3号墳の堀を利用して新たに築かれていることから、墳丘内になる第1石室よりも後に築かれたことは確かです。
墳丘の盛り土や石室の天井石はすべてなくなっていましたが、残る石室の状況から小さいながらも横穴式石室を築いています。床面には石が敷かれ、開口部近くではより大きな石となることから開口部をふさいだ石と考えられます。また、開口部に取り付く墓道も確認されています。
第2石室と呼んではいますが、しっかりと築かれている古墳になります。
平成27年3月 総社市教育委員会

 

再び前出の総社市のサイトによれば、石室は長さ2.7m・幅0.76mで、古墳を取り巻く堀の中に築かれたタイプは県内では他に例がないとのこと。 

 

右の説明板の後ろが第二石室で、その右の墳丘に第一石室がある。

 

上記写真の左端の石室は、現地ではわかりませんでしたが、平家蟹さんのサイトで9号墳と知りました。

 

室内は狭かったので外からのみで。 

 

9号墳を横から。右の木の後ろが1号墳。

この9号墳はオリジナルの位置なのだろうか。

 

枝道からパノラマで。右に2号墳、その手前に3号墳、その左後ろに1号墳、左に9号墳。

 

平家蟹さんのサイトには、歴史公園の背後の山中にある、峠古墳群中の数十の石室群が記録・紹介されていて圧倒されます。

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