墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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たちばな古代の丘緑地 「史跡めぐり 古代の橘樹をゆく」ツアー・2

前回のつづき。

伊勢山台の住宅地の中に広い芝生公園があった。

たちばな古代の丘緑地 @神奈川県川崎市高津区千年

 

国史跡として整備された橘樹(たちばな)郡衙跡。立派な石碑が立てられていた。

 

たまたま通過した3機のヘリコプター。

 

芝生の奥にフェンスで囲まれたところがあった。

 

シートの上にはかつて正倉が建っていた位置が白い枠で示されていた。

 

資料にあった地図(再掲)の右下の紫の正方形。その左上の3つの正方形(正倉)は芝生のある場所になる。

 

公園の端に説明板があった。

武蔵国 橘樹郡衙推定図

以下は左の解説部分。

橘樹郡衙とは、奈良・平安時代の武蔵国橘樹郡の役所のことです。古代の橘樹郡は現在の市域にほぼ相当しますので、古代の川崎市役所といってもいいでしょう。川崎市教育委員会では、平成10(1998)年度から6年をかけて橘樹郡衙の所在を確認するための発掘調査を行い、伊勢山台から影向寺(ようごうじ)方面にかけて橘樹郡衙に関連すると考えられる42棟以上の掘立柱建物跡などを発見しました。
なかでも、ここは官衙創設期の正倉群が発見された重要な区域で、平成18(2006)年度に土地を買収・借用して平成19年度に緑地として整備し。平成20年4月に千年伊勢山台官衙遺跡として川崎市重要史跡に指定され(※平成25年3月に国史跡指定)、将来にわたって建物跡を地下に保存し活用していくことになりました。
平成20年4月 川崎市教育委員会

解説
橘樹郡衙推定地では、稲などを保管した倉庫と考えられる総柱建物21棟や郡の役人が仕事をしていた官舎などと思われる側柱建物20棟以上・床束建物1棟、区画や目隠しなどのための塀8条・溝8条とともに、土師器・須恵器・円面硯・鉄製刀子など、当時使われていた土器や文房具類が発見されています。ただし、郡衙の中心的建物である郡長(政庁)は、まだ発見されていません。これらの建物跡は、約150年の間にⅠ期(7世紀後半~8世紀初頭)→Ⅱa期(8世紀前半~中葉)→Ⅱb期(8世紀中葉~後半)→Ⅱc期(9世紀前半)と移り変わっています。Ⅰ期は、品の字配置の倉庫群のように建物はすべて主軸を北から30度ほど傾けて建てられているのが大きな特徴です。それがⅡa・b期になると、建物は軸や配列を東西南北の方位に合わせてきれいに並べられていき、9世紀の中頃には官衙としての役割を終えたと考えられます。
橘樹郡衙推定値の北西には古墳時代の川崎を支配していた豪族の墓である西福寺古墳や馬絹古墳などの梶ヶ谷古墳群があり、その豪族の拠点が橘樹郡衙推定地周辺ではないかと考えられます。影向寺境内の発掘調査では、影向寺が創建される7世紀末以前に建てられた豪族の館と考えられる掘立柱建物跡も発見されています。豪族は後の律令体制のものとでも郡司となって館の近くに橘樹郡衙と橘樹郡の公的な寺(郡寺)である古代の影向寺を造営して、引き続いて古代の川崎を支配したのではないかと考えられます。

 

芝生公園になる前の発掘調査の写真もあった。

 

と、ここで自分のスマホが「ない」ことに気づく。

係りの方にことわって、もと来た道を急ぎ足で辿る。スマホ地図を見ながらバスに乗っていたので途中にあるはず。

多分、集合場所の高津区役所橘出張所で、参加費用(保険代)90円を払う際に荷物を表の石段に置いたときにスマホを置きっぱなしにしたのではと思われ、戻ったらその位置に3ヶ月前に買ったiphone6sが残っていた。神様に感謝。

 

一息ついて、再出発。いただいた地図を見ると、ツアーの次の目的地である影向寺は左下に直接向かったほうが近そうだったので直接そちらへ向かった。

 

台地を左手に見ながら進む。

 

ここで再びヘリコプターが。 

 

谷戸のような地形のどん詰まりに登り道があった。台地に上がって振り返ったところ。

台地上で少し迷って回り道をしていたら「たちばなふれあいの森」という公園もあった。

 

影向寺(ようごうじ)で、ツアーに無事合流することができました。

つづく。