前回の天祖神社のすぐ北にある公園。中央が掘り込まれていい雰囲気の広場になっていた。
公園の西側の道は北側にゆるく下る。この先はかつて谷田川の流路だった。
その西側、本郷通りの少し手前に駒込富士神社がある。
全長45m、高さ5.5mの堂々とした墳丘の後円部上に鎮座。
説明板があった。室町期から富士塚と呼ばれた場所に江戸初期、現在の東大構内にあった浅間社(これも富士塚?)が移転した。
富士神社はもと、旧本郷町にあった。天正元年(1573)本郷村名主木村万右衛門、同牛久保隼人の二人が、夢に木花咲耶姫命の姿を見て、翌年駿河の富士浅間社を勧請した。
寛永6年(1629)加賀藩前田候が上屋敷(現東京大学構内)を賜るにあたり、その地にあった浅間社はこの地に移転した。東京大学構内一帯は住居表示改正まで本富士町といっていた。
社伝によれば、延文年間(1356~61)には既に現在の社地は富士塚と呼び、大きな塚があったといわれる。この塚は一説によると前方後円の古墳といわれる。
富士神社の祭神は、木花咲耶姫命で、氏子を持たず富士講組織で成り立っていた。
山岳信仰として、近世中期頃から江戸市民の間に、富士講が多く発生した。旧5月末になると富士講の仲間の人々は、6月朔日の富士登拝の祈祷をするために当番の家に集まり、祭を行った。そして、富士の山開きには、講の代参人を送り、他の人は江戸の富士に詣でた。富士講の流行と共に、江戸には模型の「お富士さん」が多数出来た。文京区内では、「駒込のお富士山」といわれるここと、護国寺の「音羽の富士」、白山神社の「白山の富士」があった。文京区教育委員会 昭和56年3月
ときどき見かけるJAによる説明板もあった。
江戸・東京の農業 駒込ナス
幕府がおかれた事で、江戸の人口は急増しました。主食のお米は全国から取り寄せましたが、一番困ったのは新鮮な野菜の不足で、江戸城内でも野菜を栽培していた記録があります。多くの大名たちは国元から百姓を呼び寄せ、下屋敷などで野菜を作らせました。
このようにして、江戸近郊の農村では換金作物として、ナスやダイコン、ゴボウなどの野菜栽培が盛んになり、当富士神社周辺でも、各種の野菜栽培が生産されるなど、大消費地江戸の供給基地として発達しました。
とくに、ナスは優れたものが出来たことから「駒込ナス」として江戸庶民に好まれ、徳川幕府が発行した「新編武蔵風土記稿」(1828年)にも記されています。
農家はナス苗や種子の生産にも力を入れるようになり、タネ屋に卸していました。ここ、巣鴨駅の北西になる旧中山道にはタネ屋が集まり、さながらタネ屋街道の趣をなし、駒込、滝野川など周辺の農家が優良品種の採種と販売に大きく貢献していました。
平成9年度JA東京グループ 農業協同組合法施行50周年記念事業
たまたま正月に見たテレビ番組で、ここが”一富士・二鷹・三なすび”の発祥(の一説)と紹介されていた。近隣に鷹匠屋敷があったとのこと。
斜面には所狭しと火消し組の石碑が並ぶ。
石段の右側にも。
火難除けで著名なようだ。毎年8月28日には”鎮火祭”が行われる。祭りの様子がこちらの方のブログにあった。富士神社の「鎮火祭」 - マーちゃんの数独日記
参道正面の石段はかなり急。45度以上に見える。
少々並んで参拝。並ぶほど賑っているのが心地よい。
拝殿前から振り返って。
社殿の裏側を回れるようになっていた。藤棚が巡っていた。
社殿の背面側。
社殿の裏に大木が3つ、肩を組むように並んでいた。
回った先は一段低くなっている前方部。右手が後円部(と思われます)
東京都遺跡地図には「種別・古墳」で土師器・埴輪が出土とあるが、概要には前方後円墳の後ろに?マークがついている。
墳丘上では段差はあったものの、前方部やくびれ部の形は感じにくかった。
傾斜のゆるい方の石段を降りて裾の周囲を巡る。
後円部の裾だが、倉庫によって(?)変形を受けていた。
道路に面した墳丘部分。石積みには寄進した方々の名が刻まれていた。
後円部の北東側。この様子だとこちらが前方部裾に見えてしまう。
その後、本郷通りを駒込駅まで歩いた。駒込富士神社は東洋文庫や六義園にも近いのでそちら方面でお出かけの際には併せてご参拝をお勧めします。
帰り道に駒込駅前のピザ店に立ち寄った。グラスワイン290円、マルゲリータピザ1枚500円也。