前回のつづき。
南高橋の西の袂に鉄砲洲稲荷神社が鎮座する。
門前の御由緒から。地名由来として、地形が鉄砲の形をしていたからという説と、寛永の頃に幕府が大砲の射撃訓練としていたからという説が紹介されていた。
京橋地区の生成 並に鐵砲洲稲荷神社御由緒
鐵砲洲の地は、徳川家康入府の頃は既に鐵砲のかたちをした南北凡そ八丁の細長い川口の島であり、今の湊町や東部明石町の部分が之に相当します。寛永の頃は此処で大砲の射撃演習をしていたので此の名が生れたとも伝えられています。昔の海岸線は現在のものより遥かに奥まったものであって、八町堀の掘られたのが慶長17年であり、京橋あたりの土地形成が天文の頃足利義輝の治世になっていますが、之等京橋地区一帯の土地生成の産土の神こそ、現在の鐵砲洲稲荷神社の生成大神であります(後略)
中央区教育委員会の説明板も。
鐵砲洲稲荷神社
所在地:中央区湊1-6-7
鐵砲洲稲荷神社は、江戸湊の入口に鎮座する神社として、地域の人々の信仰を集めてきました。
神社は、寛永元年(1624)頃、稲荷橋南東詰に遷りましたが、明治元年(1866)現在地に移転し、今日に至っています。
関東大震災により被害をうけた境内は昭和10年(1935)より復興、整備され、正面中央奥に社殿、左手に神楽殿と摂社八幡宮、右手に社務所と手水舎が向かい合うように配置され、境内西南隅に神楽庫が設けられています。また、西北隅には富士山の溶岩で築いた富士塚があり、そこを富士信仰の場としていました。むかしの富士塚は「江戸名所図会」にも描かれた有名なものでした。
境内は昭和初期の神社建築とその配置の有様をよく伝えており、また、富士塚も区内唯一の富士信仰の名残りをとどめている点から、共に中央区民文化財に登録されています。
平成5年3月 中央区教育委員会
境内には神楽殿などの大きな建物も並ぶ。
表に出ていた看板によると、平成の大改修事業を平成29年3月に終えたばかり。
社殿の改修、社務所の解体撤去と参集殿の新築などとともに、富士塚の一時撤去と復元工事が行われたそうだ。
まずは拝殿に参拝。
その右後方に大きな岩塊が見えた。
境内の隅からこちらを見つめられているように感じた。
ビルを較べると小さいが近づくとその大きさに圧倒される。
登拝禁止の立て札があったので、残念ながら遥拝のみ。
斜度60度くらいか。これを一旦撤去して復元とは、重機を使っても大仕事であったろう。
周囲に講碑が埋めこまれていた。
胎内窟も造られている。
大きな講碑もあった。
山門の近くには百度石もあった。
国立国会図書館デジタルコレクション「錦絵で楽しむ江戸の名所」で、江戸期の鉄砲洲稲荷と富士塚の様子が見ることができる。
http://www.ndl.go.jp/landmarks/sights/teppozu/
名所江戸百景「鉄砲洲稲荷橋湊神社」歌川広重・安政4年
アーチの木橋は八丁堀に架かる稲荷橋。 左の赤い板塀が移転前の鉄砲洲稲荷神社。
現在の南高橋と鉄砲洲稲荷神社との位置関係
戦前までは八丁堀が残っていて、稲荷橋が架かっていた。
関東大震災前の地図に南高橋は存在しないが、もともとあった高橋が現れた。
明治初期の様子。架かっている橋は、今は無い高橋と稲荷橋だけ。
稲荷橋南詰の緑の部分が鉄砲洲稲荷神社だろう。
1844年の江戸古地図。稲荷橋(その右には高橋)の南の赤い丸のところに鳥居の印と「いなり」が見える。
ということで下記の絵は、高橋の袂から八丁堀対岸の鉄砲洲稲荷の富士塚(登っている人が見える)を描いていると思われる。
江戸自慢三十六興「鉄砲洲いなり冨士詣」歌川国貞 歌川広重
国立国会図書館デジタルコレクション
調べていたら稲荷橋の痕跡が今でも残っていることを知ったので、再訪した。
桜橋第二ポンプ所の前。
残っている柱は一基のみ。道の反対側は亀島川。
左奥は南高橋で、右手にカーブを描く岸辺にかつての鉄砲洲稲荷神社があったと思われる。「鉄砲洲いなり冨士詣」の浮世絵と同じ視点となったか。