墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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淀橋~中本一稲荷神社 東京都中野区中央

前回のつづき。

鳴子富士(成子天神社)登拝後に二つの富士塚をはしごした。途中でいろいろ寄り道しつつ。

まずは西へ中野坂上駅を目指す。

神社の前の青梅街道を下っていくと「淀橋」の大きな三叉路に出た。

 

アジサイは終わってサルスベリの季節。

 

神田川に架かる橋の名が「淀橋」

 

現地の説明板には、淀橋の名は徳川家光による改名説が紹介されていた。

淀橋の由来
「淀橋」の名は、江戸時代の三代将軍徳川家光が名づけたといわれています。古くからあるこの橋は、昔は「姿見ずの橋」とか「いとま乞いの橋」といわれていたといいます。このあたりで中野長者といわれていた鈴木九郎が、自分の財産を地中に隠す際、他人に知られることを恐れ、手伝った人を殺して神田川に投げ込みました。九郎と橋を渡るときには見えた人が、帰るときには姿が見えなかったことからその名がついたといわれます。
江戸時代の初めに鷹狩りのためこの地を訪れた将軍家光はこの話を聞き、「不吉な話でよくない、景色が淀川を思い出させるので淀橋と改めるよう」に明治、これ以降、その名が定まったそうです。

 

橋の名は地名となり、昭和7年には淀橋区が誕生。その後の昭和22年に「四谷区」「牛込区」と合併して新宿区が出来上がっている。

http://www.city.shinjuku.lg.jp/kanko/file02_00002.html

ちなみに、ヨドバシカメラも「淀橋区にあったカメラ屋」に由来するそう。

 

上記の新宿区のサイトには異なる橋名由来が紹介されていた。

成子村と中野村の間を流れる神田川にかかっている橋を餘戸、あるいは四所橋と呼び、これから転じたものか、また、寛永年間3代将軍家光が橋のそばで休息したおり、川の流れがよどんで見えるから淀橋にせよといったとか、さらに亨保年間8代将軍吉宗が山城国(現在の京都)淀にその景色が似ているので名づけたとか、そのほかいろいろの説があり、いずれも橋の名からその地名が生まれたようです。

 

淀橋から神田川下流(北)方向。

 

青梅街道を隔てた向かい側、ビルの間が上流(南)方向。

 

川を越えると上り坂。途中で赤い鳥居を石段にひかれてそちらの方へ。

扁額は本中稲荷神社と読めた。

 

参道の幟で「中本一」が正しいと知る。

 

鳥居の右手には「女坂」?も。

 

石段を上ってまずは参拝。

 

参道を振り返って。

 

検索して参照した「知れば、知るほど面白い街・中野 あるいてネット」によれば、300年の歴史がある神社で、中野本町通り一丁目に鎮座することから、「中本一」と呼ばれ「高稲荷」の通称もあるとのこと。

 

裏手の参道は台地上と同じ標高になっていた。

 

そこから住宅街を抜けて、再び青梅街道へ。

 

中野坂上駅の入口は凝った作りの天井になっていた。