墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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上野東照宮 上野大仏 東京都台東区上野公園

2017年は松の内に上野へ出かけてみた。上野東照宮と東博が目的地。

初めに訪れたのは上野東照宮。上野へはよく行くものの、こちらを参拝するのは初めて。上野動物園正門の左側に参道があった。

 

鳥居には享保十九年と刻まれている(1734年)

 

入口の門。ぼたん園もある。

 

参道の石灯籠。外国からの観光客が大勢いらした。

 

参道の右手には五重塔。動物園の敷地に立つ。 

 

社殿に近づくと、沢山の銅製の大燈籠が並ぶ。諸国大名が寄進した50基。

 

上野東照宮の説明板。

上野東照宮(国指定重要文化財)台東区上野公園9番
藤堂高虎(1556~1630)は上野山内の屋敷の中に、徳川家康を追慕し、家康を祭神とする宮祠を造った。これが上野東照宮の創建といわれている。あるいは寛永4年(1627)、宮祠を造営したのが創建ともいう。もとは「東照社」と称していたが、正保2年(1645)に宮号宣下があり、それ以後家康と祭る神社を東照宮と呼ぶようになった。
現在の社殿は、慶安4年(1651)、三代将軍家光が大規模に造り替えたもので、数度の修理を経ているが、ほぼ当初の姿を今に伝える。社殿の構造は、手前より拝殿、幣殿、本殿からなり、その様式を権現作りという。社殿は都内でも代表的な江戸初期の権現造りで、華麗荘厳を極めている。
唐門、透塀は社殿とともに構造、様式が優れており貴重であることから、参道入口の石造明神鳥居、唐門前に並ぶ銅燈籠48基と合わせて国の重要文化財に指定されている。平成21年3月 台東区教育委員会

 

上野東照宮の御祭神は徳川家康、徳川吉宗、徳川慶喜。社殿は平成21年から25年にかけて修復され、平成26年(2014)から公開されている。

 

参道の突き当たりが唐門、その後ろに拝殿が建つ。

 

唐門の前に賽銭箱がありここで参拝できる(内側には無かった)

正式名「唐破風造り四脚門」は1651年の造営。左甚五郎の手によって、扉の左右に昇り龍・降り龍、扉には唐草格子、扉の上には亀甲花菱、正面上部には錦鶏鳥・銀鶏鳥の透かし彫りなどが施される。

 

唐門左手から透塀の内側に入って拝観できる。ここからは有料で一般500円。

樹齢600年の大楠の横を通っていく。幹周りは8mになるそうだ。

 

透塀(すかしべい)に囲まれた神域へ。唐門前までは外国人観光客で賑わっていたが、内側は静かだった。

 

唐門と同様に、社殿も修復されて造営当時のような姿を見せている。

 

金箔をふんだんに使っていて金色殿とも呼ばれる。

 

壁に反射した光が、境内を金色に照らす。

 

内側から見た唐門はさらに豪華だった。

 

これが屋外に置かれているという贅沢?

 

日があたる部分は眩かった。 

 

その後ろに拝殿がある。

 

外からの拝観のみ。金色の角柱が並ぶ。

 

解説板によれば、柱上部や彫刻周囲の文様は胡粉を何度も塗り重ねて厚みを出し、その上から金箔を貼ることで文様が立体的に輝くよう工夫された置上彩色(おきあげざいしき)という彩色方法がとられているそうだ。

 

軒下の組み物も極彩色。

 

豪華絢爛な東照宮に圧倒された後、その南側にある上野大仏にも参拝した。

大仏といっても今残るのはご尊顔のみ。

 

天保12年(1841)に鋳造された大仏だったが関東大震災で頭が落ち、胴体は戦時中に供出されて、御顔だけが昭和47年にもとの場所に迎えられた。これ以上「落ちない」ということで受験生に人気。お守りの種類が豊富だった。

 

その向かいにはパゴダがある。昭和42年に大成建設の寄進により建てられたが、内部には旧上野東照宮薬師堂の本尊だった薬師瑠璃光如来と日光・月光菩薩が収められている。内部は撮影禁止。

 

パゴダや大仏がある場所は周囲より小高くなっている。もしや、と思ったが、東京都遺跡地図を調べてもここには何も印されていなかった。

上野公園には東京文化会館の裏手に摺鉢山(すりばちやま)古墳があるが、かつては桜雲台古墳、蛇塚古墳なども存在したことが、前記の遺跡地図でわかる。

 

東照宮と上野大仏の間には、お化け燈籠もひっそり佇んでいた。

寛永8年(1631)に佐久間大膳亮勝之の寄進と刻まれた高さ6mの大きな燈籠。勝之は京都南禅寺と名古屋熱田神宮にも大燈籠を寄進しており、この3つを日本三大燈籠と数えるのだそう。

このあと東博へ向かった。