墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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光正寺古墳 福岡県糟屋郡宇美町光正寺

善一田古墳群からは北へ3㎞、糟屋平野のほぼ中央の丘上に立地する、光正寺(こうしょうじ)古墳へ。国史跡で、駐車場(9時~17時)・トイレ完備。

 

駐車場から西へ園路を進むと、形が整えられた前方後円墳の後円部裾に出ました。

 

現地説明板。3世紀後半という古い時代の前方後円墳(墳頂54m)です。

■発掘調査と整備
光正寺古墳は、戦後間もない1950年代初め頃、森貞次郎博士が古墳の形状が古式古墳の様相をよく残していることを指摘し、墳丘測量を行い、古墳保護の必要性を提唱されたことから注目されるようになりました。
宇美町では光正寺古墳の保存整備のため、1996年から1998年までの3年間で墳丘や埋葬施設の発掘調査を実施し、その規模や形状を確認しました。その後、発掘調査の成果をもとに1999年から2000年までの2年間で史跡公園として復元工事を行いました。
墳丘は盛土で保護し、築造当初の形状を再現しています。本来は墳丘に葺石が敷かれていましたが、古墳周辺の芝生広場と一体として利用できるように、芝で墳丘を復元整備しています。
本来の墳丘については、ガイダンス広場に1/5の大きさの古墳模型で復元しています。
■光正寺古墳の特徴
築造年代は後円部に造られた埋葬施設である第1主体部出土の古式土師器の特徴から、福岡県内の前期古墳でも最古期に位置づけられる3世紀後半頃と考えられています。
墳丘規模は全長約54m、後円部径約33mで、糟屋郡内最大の前方後円墳です。最近の考古学研究では、卑弥呼や邪馬台国などの国々について記した中国の歴史書「魏志倭人伝」に登場する不弥国に関係する盟主層の墓ではないかと考えられています。
そして、この「不弥」という言葉が「宇美」という町名の由来となったという説もあります。

 

後円部から見つかった埋葬施設は5つ。

■埋葬施設
後円部で埋葬施設が5ヶ所みつかっています。第1主体部(築造当初の墓)は、玄武岩・花崗岩・滑石などの石材を利用した大型の箱式石棺で、石棺の周りは川原石で囲まれていました。第2主体部は、第1主体部の北側で確認された左岸を利用した箱式石棺です。第3主体部は第1主体部の南側にあり、割竹形木棺と推測されています(痕跡を確認)。第4主体部は第3主体部の東側で確認された土器棺です。第5主体部は第1主体部の西側で確認された箱式石棺です。
第1から第4主体部は、主軸を東西方向に整然と並べて造られ、頭位は西に向けていたと推定されます。これらに対し、第5主体部は南北方向に主軸を向けて造られています。
■出土品
後円部の埋葬施設では盗掘のため、わずかな副葬品しか確認できませんでしたが、翡翠製勾玉2点・碧玉製管玉2点、鉄刀片、刀子が出土しています。刀子などは絹織物で巻かれた状態で出土しました。この他にも水銀朱やベンガラが付着した土師器も出土しています。
なお、出土品や埋葬施設である土器棺や石棺の一部は、宇美町立歴史民俗資料館に展示しています。
(後略)

 

墳頂へ、園路を進みましょう。

 

側面(北東側)から。

 

鞍部に上がって前方部先端(北西・博多湾側)方向を。

 

振り返った後円部。

 

後円部に上がって先端(南東)方向を。

 

左方向へ回ります。北東方向。

 

北方向。

 

ゴルフ練習場の手前に見える墳丘は、七夕池古墳。このあとに訪ねました。

 

後円部墳頂から前方部(北西)方向。

 

西南西方向。見晴らし最高です。

 

南西方向。標高100~200mの丘陵の向こうが福岡平野。結構高いところまで住宅地が開発されています。

 

もう一度前方部方向をスマホ広角で。

 

前方部先端に渡って振り返った後円部。

 

前方部の先端ライン。

 

前方部右裾からスマホ広角で。

 

右のくびれ部あたりから後円部を。

 

そこから斜面を見下ろして。

 

説明板にあった1/5モデルが見えました。時間の都合で遠望で。

 

後円部先端側から北側側面を。

2024年2下旬訪問